今回の実例は、Twitterから。
10年前の今ごろ、世界の目はエジプトの首都カイロに注がれていた。2011年1月25日、近隣のチュニジアでの革命に刺激を受けた人々が、自国の独裁者ホスニ・ムバラク(彼は形だけの選挙を行って、自分の息子に後を継がせるつもりでいたという)に退陣を求める平和的抗議行動を組織化して開始した。エジプトでは1月25日は「警察の日」で、「革命」派は、前年6月にハリド・サイードさんという青年が警察に捕らえられて拷問死したことに抗議するためにこの日を選んで、いくつかの都市で大規模なデモを組織した。首都カイロ市の中心部にある「タハリール広場」(「タハリール Tahrir」は「解放」の意味で、20世紀はじめの対英独立運動にルーツのある名称である)は、初日から「革命」派が座り込みを行い、人々が集う中心地となった。世界のメディアもそこに集まった。
革命派の人々がテントを張るようになった広場内には、携帯電話・スマートフォンとソーシャルネットが必要不可欠の存在だったあの「革命」を支える電源供給所のようなものから床屋まで揃っていた。
私も連日、ネットでだれでも登録などなしで自由に見られるアルジャジーラ・イングリッシュの24時間ニュースをつけっぱなしにして、現地から送られている英語でのツイート(エジプトのあの「革命」の中心となっていたのは大学生などインテリで、エジプトに限らずアラブのインテリは、英語は自由に使える人が多い)を日本語にしてリツイートするなどしていた。緊迫した状況だった。広場にいつ戦車が突入してもおかしくなかった(1989年6月4日の北京の天安門広場のように)。モニターの向こうからこの状況を注視している人たちは、「世界の目が注がれている」という状況を作ることで、現地の人々を守れると考えていた。そしてこのときは実際にそうだった。この時期までは、「惨事はメディアを排除して密室化したところで行われる」というのが基本的なことだったのだ。ほんの2年後、2013年の夏に同じエジプトのカイロで世界のメディアの目の前ですさまじい虐殺が行われて、そんな基本的な約束事は過去のものになったのだが、少なくとも2011年2月初めの時点では、「密室化させてはいけない」という思いで、世界中の人々が、タハリール広場を見つめていた。そのことがタハリール広場が全エジプトを代弁する存在であるかのような錯覚を生じさせた(そのことはのちに、あのときあの広場の中から様子を英語で実況ツイートしていたアメリカ人のジャーナリストや研究者、アナリストといった人々が反省していたのだが)。
2月1日の広場の映像がある。女性の服装を見るとわかりやすいのだが、イスラム教のルール通りに髪の毛や肌を覆っている人たちもいれば、普通に西洋的な服装で首やデコルテ、腕を出したTシャツ姿にまとめ髪という人たちもいる。年齢もさまざまで、子供連れの人たちもいる。プラカードは「海外」に見せるための英語も多いが、マジックで手書きしたようなものが多く、組織が配っているような雰囲気ではない。
こういった中から状況を伝えていたアメリカのジャーナリストのひとり、ニューヨーク・タイムズのリーアム・スタックさんが、10年前のことを振り返って連続ツイートをしている。
10 years + 1 day ago, I was detained by secret police in Tahrir Square, who took my camera & started to tie me up with a phone cord before they saw my US passport& let me go. Facebook just reminded me that 10 years ago today I went back to the museum& got them to return my camera
— Liam Stack (@liamstack) 2021年2月7日
文法的には《関係代名詞の非制限用法》と《使役動詞let + O + 原形不定詞》が出てくるのが注目ポイント。《remind + 人 + that ...》の構文もあるが、前から順番に読んでいけば意味を取りそこなうことはないだろう。
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