今回も引き続き、イングランド南西部の都市ブリストルで6月7日に引き倒された奴隷商人エドワード・コルストンの像について。
ブリストルという都市について、また5月下旬以降勢いを得ている #BlackLivesMatter 運動についてなど文脈的なことは前々々回に書いた。
また、エドワード・コルストンについては前々回、英語版ウィキペディアを、最初に記事が書かれたとき(2004年)までさかのぼって見てみた。
そして前回、像の引き倒しがあったあとに、コルストンについてのウィキペディアの記述がどのように変わっているかを見たわけだが、英語版ウィキペディアでは、像の引き倒しがあったあとに、その像そのものについても新たに立項されている。
今回はまず、この項の履歴を、前々回説明したように "View history" から見てみよう。
まず、ページ上部の "View history" をクリックして:
次に、出てきた画面の一番下にある "oldest" をクリックする。
そうすると、この項目が、像が引き倒された2020年6月7日の15:57 UCT (=GMT) に立ち上げられていることがわかる。今は英国は夏時間でGMT +1になっているので、現地時刻でで16:57ということになる。像が引き倒された正確な時刻は私は確認できていないが、いずれにせよ、引き倒しの直後だ。
この時点での記述は、ページを立ち上げたDoublahさんが書いているように、"extremely basic stub" で、つまり本当に基本的な情報しか書かれていない短い物である。逆に言えば、「とりあえず立項しておこう」と考えた人が、この時点で「まず書いておかなければ」と考えた基本情報がこれ、ということになる。
The Statue of Edward Colston was a statue of Edward Colston in Bristol city centre. The sculptor was John Cassidy, and the statue was erected in 1895. The statue was designated a Grade II listed structure in 1977.
On 7 June 2020, the statue was pulled down during a Black Lives Matter demonstration, following the killing of George Floyd in the United States. Protestors would subsequently dump the toppled statue in Bristol Harbour.
https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Statue_of_Edward_Colston&oldid=961282812
書き出しの文が "The statue was a statue" と奇妙な文になっているのは「とりあえず」の記述だから(誰かがきれいに書き直してくれると期待して書いたものだから)と思われるが、英語学習者にとっては "The statue of ~" というと何となく固有名詞に近い感じがして、"a statue of ~" というとそうではない、という点で学びがある。
これを別の例で考えると、例えば "The University of Tokyo is a university in Tokyo" といったものが思い浮かぶだろう("The University of Tokyo" は固有名詞)。
ともあれ、この短い記述から必要な情報を拾ってみよう。この記述を見る人には、だいたい次のように重要な情報が浮かび上がって見えるのではないか。
The Statue of Edward Colston was a statue of Edward Colston in Bristol city centre. The sculptor was John Cassidy, and the statue was erected in 1895. The statue was designated a Grade II listed structure in 1977.
On 7 June 2020, the statue was pulled down during a Black Lives Matter demonstration, following the killing of George Floyd in the United States. Protestors would subsequently dump the toppled statue in Bristol Harbour.
つまり:
-この像はブリストルのシティ・センター(イギリス英語で「市街」のこと。アメリカ英語ではdowntown)にあった。
-この像を作ったのはジョン・キャシディという彫刻家である。
-像が建てられたのは1895年である。
-2020年6月7日に像は引き倒され、ブリストル湾に投げ込まれた。
ここで前回まで見てきたエドワード・コルストンその人についてのウィキペディアをもう一度見てほしい。
一番最初の部分に生没年が記載されている。1636年生まれ、1721年没だ。
だがこの像が建てられたのは1895年。本人が没してから174年も後のことである。
今の時点から言えば、コルストンは300年以上前の人だが、コルストン像は125年前のものにすぎない。
そして英国では「125年前」はさほど古いものではない。そのくらい古い建物は単なる普通の建物で、「自分が住んでいる建物は築125年だ」なんてことはごく一般的なことである。そこらへんの商店や事務所などでもそのくらいの築年数の建物はごろごろしている。
1895年というとヴィクトリア朝後期で、つまり「大英帝国」の最盛期である。アメリカで南北戦争(1861年~65年)が終わってから30年後、つまり奴隷制が廃止されてから30年後だ。もちろん英国ではそのずっと前に奴隷貿易が禁止され(1807年)、さらに奴隷制度が廃止されている(1833年)。つまり、エドワード・コルストンが生きていた17世紀から18世紀にかけての時代は、19世紀には完全に「今とは価値観の異なる過去の時代」になっていた……はずである。コルストンは「過去の人」になっていたはずである。
にもかかわらず、1895年になってコルストンを讃える銅像が作られたのはなぜか。どういう経緯があったのか。
それを調べるにはウィキペディアなどでは全然足らない。ウィキペディアの現行の版は、上で見た最初の「とりあえず」の版とは比べ物にならないくらい情報量が増えているが、それでも、なぜこの像が作られたのかということは書かれていない。像を作ったのは依頼に応じて像を作るプロの彫刻家だが、どこの誰がどういうふうに発注したのか、どういう経緯でそれが決定されたのかなどがウィキペディアではわからない。
そういった細かいことを調べようとする場合、キーワードを考えてGoogleなどでウェブ検索してもよいのだが、英語版ウィキペディアは情報ソース (references) の記載がしっかりしているので、そこを見ると知りたいことの手がかりが見つかることが多い。
今回の場合、この像は文化財登録されているので ("Grade II listed" とはそういう意味である)、その方面の文書になら何か手がかりがあると当たりをつけることができる。そこで現行の版を見てみると:
情報ソース(ブラケットの中に数字。[1], [2]など)を適当に見てみようと、最初にあったものにポインタを当ててみると、そこがNational Heritage List for Englandの文書だ。登録文化財についての管轄機関みたいなところなので、ここの文書を見れば何か書いてあるだろう。
というわけでその文書をクリックすると、次のような一節がある:
Edward Colston is buried at All Saints' Church in Bristol, where a monument, designed by Gibbs and carved by Rysbrack, lists his charities. The bronze statue in Colston Avenue was commissioned by a committee organised by J. W. Arrowsmith, a Bristol printer and publisher and a promoter of the Exhibition, whose premises overlooked the site. The statue was unveiled by the Lord Mayor of Bristol on 13 November 1895.
https://historicengland.org.uk/listing/the-list/list-entry/1202137
この先は、ここに出ている人名を手掛かりにまた調べていけば、何かわかるだろう。早速単にウェブ検索してみると、J. W. Arrowsmithについてのウィキペディアのエントリがでてきた。
さて、というわけで、要はブリストルの商業界の名士・有力者によってコルストンの銅像は作られたのだが、その当時はコルストンが奴隷貿易に関わっていたということは語られていなかった。単にブリストルの病院や学校などを支援して名を残している過去の偉人、という受け取られ方だったのだろう。
The fact that much of his fortune was made in the slave trade was largely ignored until the 1990s.
次回はこのあたりのことも含め、また像を作った彫刻家、ジョン・キャシディ(アイルランド人)についても、少し書いていきたいと思う。