Hoarding Examples (英語例文等集積所)

いわゆる「学校英語」が、「生きた英語」の中に現れている実例を、淡々とクリップするよ

ウィキペディアの物足りない説明を、ウィキペディア以外のサイトで補強する(エドワード・コルストン像を作った彫刻家)

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今回も前回の続きで、2020年6月7日に英南西部の都市ブリストルで引き倒されたエドワード・コルストンという300年前の奴隷商人の像について。

本題に入る前に最新のニュースについて少しだけ。コルストン像の引き倒しに続いて、先週、英国では各地で奴隷貿易とかかわりのあった人物を、銅像や施設名として大っぴらに顕彰するということについての見直しが行われた。その例の一部は前々回の記事の最後の方に書いてある通りで、19世紀末の名宰相、グラッドストンにまでその見直しは及んでいる。詳しくは本家ブログのほうで書きたいのだが、この週末に予定されていた#BlackLivesMatterの大規模デモを当局が過剰に警戒して、これまで何度も落書きされるなどしてきたロンドン中心部のウィンストン・チャーチル像と、戦没者慰霊碑(セノタフ)が、人が手を出せないように板で囲まれるということがあり、これに抗議する(という名目の)反・反人種差別デモ(つまり人種差別支持デモ)が、そっち方面の有名な活動家の呼びかけで行われた(その活動家本人は姿を見せなかったらしいが)。

そして日曜日、そのデモ隊*1が警察相手に大暴れをして、大勢が逮捕されるなどしている(ソースとしては、例えばBBCのこの記事を参照)――のだが、日本語圏の一部ではなぜかこれが「反人種差別デモで逮捕者続出」みたいな話になってるらしい。正しくは「反人種差別デモに対抗すべく呼びかけられた反・反人種差別デモで逮捕者続出」である。現地からの映像の1本でも見れば判断できる話なのだが、映像を見ていないか、見てもその判断すらできない人たちが「今デモやってるのはBLMだから、このデモはBLMだ」と早合点しているのかもしれない。

 

閑話休題前回は、件のエドワード・コルストンの銅像が、本人が没して174年後に作られたという事実を確認した。銅像は、1895年に、ブリストルの印刷業者・出版者で大博覧会(多分1851年の水晶宮万国博覧会)プロモーターだった実業家が中心となって建てられた。実はブリストルでは、コルストンのメモリアルはそんな銅像をわざわざ作らなくても既に存在していた――ということは、下記のごとく、文化財に指定されていたあの像について記載した文化財のサイトで確認できた。

Edward Colston is buried at All Saints' Church in Bristol, where a monument, designed by Gibbs and carved by Rysbrack, lists his charities. The bronze statue in Colston Avenue was commissioned by a committee organised by J. W. Arrowsmith, a Bristol printer and publisher and a promoter of the Exhibition, whose premises overlooked the site. The statue was unveiled by the Lord Mayor of Bristol on 13 November 1895.

https://historicengland.org.uk/listing/the-list/list-entry/1202137

また、その当時は、エドワード・コルストンが奴隷貿易で財を成したということはほとんど意に介されていなかった(コルストン個人についてそういう事実が無視されていたわけではなく、奴隷貿易自体が語られていなかったのだが)。コルストンと奴隷貿易の関係が大っぴらに語られるようになったのは、像が作られてから約100年後の1990年代のことだった。「ブリストルといえばMassive Attack」というイメージが定着していたころのことだ。

The fact that much of his fortune was made in the slave trade was largely ignored until the 1990s.

https://en.wikipedia.org/wiki/Statue_of_Edward_Colston

さて、この像は誰が作ったのか。発注したのは上で見たとおり、地域の大物実業家のArrowsmithだが、実際に像を制作したのは誰か。それもウィキペディアに書いてある。

The bronze statue, created in 1895 by sculptor John Cassidy, on a Portland stone plinth, was designated a Grade II listed structure in 1977.

https://en.wikipedia.org/wiki/Statue_of_Edward_Colston

※ちなみに今回の記事は、現時点で最新の版に準拠している: 

ウィキペディアの記載では、 「彫刻家のジョン・キャシディ」にリンクが設定されていて、この彫刻家について基本的な情報が確認できるようになっている。今回はまず、そのページを見てみよう*2

en.wikipedia.org

短い記事で、情報量もさほど多くない。きっと、この時代に資本家などの発注を受けてたくさんの像を制作した、「芸術家」というより「職人」寄りの彫刻家だったのだろう。美術学校で教える仕事もしていたそうだ。何となく人物像の想像がつく。

だが意外なのは、この彫刻家がアイリッシュだったという記載である。

John Cassidy (1 January 1860 – 19 July 1939) was an Irish sculptor and painter who worked in Manchester, England, and created many public sculptures.

この時代、アイルランドは完全に英国の支配下で、現在the United Kingdom of Great Britain and Northern Irelandと呼ばれているあの国は、the United Kingdom of Great Britain and Irelandだった。だからアイリッシュの彫刻家がイングランドを拠点にしていたって別におかしくはない。

しかし1860年生まれのこのアイルランド人がイングランドに行ったという経緯は、少々興味をそそるものだ。少なくとも私にとっては。

ウィキペディアによると、ジョン・キャシディは1860年1月1日にアイルランドのカウンティ・ミース(ダブリンのすぐ南)に生まれ、20歳で職探しのためにダブリンに出て、夜間美術学校に通い、奨学金を得てイタリアのミラノに行った。つまり、親が芸術家とかそういう家の子ではなく、それでいてかなり優秀だったのだろう。そして2年でイタリアを離れ、そのまま終生、イングランドマンチェスターに住むことになった。1883年にマンチェスター美術学校で学び、87年にはそこで教えてもいる。マンチェスターアイルランドからの移民(カトリック)が多い街である。

つまり、1880年にダブリンに行き、1880年代前半にミラノで彫刻を学んだ後に、マンチェスターに暮らすようになった、という流れだ。

当時のマンチェスター産業革命で勃興した新興資本家の街として栄えていた。そのころに蓄えた富は美術館・博物館として形になっている。同時に、マンチェスターの「ラディカル」な風土はこのころにはもう形作られていた。マイク・リーが映画化した「ピータールーの虐殺」選挙制度改革を求める非武装の民衆のデモが武力弾圧され、18人が死亡し何百人もが負傷した事件)が起きたのが1819年だ。


『ピータールー マンチェスターの悲劇』特別映像

 

ともあれ、こうして19世紀末のマンチェスターに居を定めたアイリッシュの彫刻家は、マンチェスターの公共の場所に多くの彫像を残し、第二次世界大戦が始まるほんの少し前の1939年7月にマンチェスターの病院で没した。亡骸は市の公営墓地に埋葬されている……ということがウィキペディアに記載されている。

これだけでは情報量が全然足りないので、ウィキペディアのページ末尾にあるExternal Linksから、その名もずばり「ジョン・キャシディ・org」というサイトを見てみることにした。

www.johncassidy.org.uk

このサイトの "Biography" のページに記載されているキャシディの生涯は、才能はあったが華々しい活躍の場には恵まれず、地道で質素な暮らしをしていた1人のアーティストのそれだ。マンチェスターに移り住んでから死ぬまでずっと下宿(貸間)暮らしで、結婚はせず、公営墓地のカトリックの区画に埋葬されている。

そう、「カトリック」。そのことを私は確認したかった。

一口に「アイリッシュ」といっても、カトリックアイルランド人なのか、プロテスタントのアングロ・アイリッシュ(英国系アイルランド人)なのかでずいぶん環境も状況も違ってくる。「キャシディ」という名字は(アングロ・アイリッシュではなく)アイリッシュだが、アイルランドでは名字は完全な手がかりにはならない(改宗している人がいたりするので)。

彼は(当時マンチェスターに住んでいた多くのアイルランド人と同様に)カトリックアイルランド人だったのだ。親は農民で、20歳でダブリンに仕事を探しに出る前は、芸術方面などではなく、ホテルの酒場で働いていたという。若者は、そういう日々の中で、絵を描いたりエッチングをしたりして自分の芸術的な欲求を発露させていた。

ダブリンで夜学の美術学校に通った彼が欧州大陸で学んだかどうかについては、ウィキペディアでは「ミラノに行った」とあるが、実は確たる証拠はないようだ。1883年から学んだマンチェスター美術学校では優秀な学生として名をとどろかせ、1887年にはジュビリー(ヴィクトリア女王即位50周年)の記念行事の際に、今目の前にいる人をモデルに立体像を作るというパフォーマンス的なことをやり、185個とも200個とも言われる数の人の頭部の像を粘土で作ってのけて有名になったという。

実に、才能あふれる若者だ。

1860年生まれだから、20世紀に入ったころには40歳。第一次大戦が始まった1914年には54歳ということになる。マンチェスターの産業資本家をパトロンに持ち、公共の場に飾られるような立体作品を多く手掛けていた彼は、第一次大戦後は戦争記念碑を多く作ったという。

From the 1890s until the outbreak of World War I he carried out many commissions, large and small, in the local area and as far away as Aberdeen and Bristol. A popular figure in Manchester, he attracted valuable commissions from wealthy local art collectors, notably James Gresham (founder of the long-lived engineering form of Gresham and Craven) and Enriqueta Rylands, widow of textile millionaire John Rylands.

His finances must have been stretched during the war, as few would have been commissioning sculptures, but after the war he entered a prosperous period due to the demand for war memorials.

http://www.johncassidy.org.uk/life.html

第一次世界大戦は、「戦争というものすべてを終わらせるための戦争」と呼ばれていた。それが終わったとき、キャシディの作った戦没者追悼の碑を前に、「これで戦争などというものはなくなる」と思った人々もいるかもしれない。

だが実際にはそうならなかったことは、私たち全員が知っている。

 

このサイトの「作品一覧」のページを見ると、1920年から25年にかけて、彼が何件もの戦没者追悼の碑を作っていることが確認できる。マンチェスターだけでなく、ウェールズノース・ヨークシャーにもある。

ここで私は「戦没者追悼の碑」と述べているが、英語では "war memorial" である。英語のmemory/memorialは、「忘れない」「記憶に刻む」「記憶を伝えていく」という意味合いであり、文脈次第でそれは「記憶」になったり「記念」になったり「追悼」になったりする。

メモリアルだから、必然的に、戦意を高揚させるような勇猛果敢なものよりも、より内省的な落ち着いたものが多いのだが(共産圏の「大勝利記念なんとか」みたいなのはまたちょっと違うにしても)、キャシディの作品群にもそれは明らかだ。

「作品一覧」で最初に出てくる戦没者追悼の碑はランカシャーのClayton-le-Moors の碑だが、この写真には、しばらく見入ってしまわずにはいられないだろう。

www.johncassidy.org.uk

「勇猛果敢」というよりは、「ただ決然としている」としか言いようのない様子の軍服姿の若者が口を真一文字に結んでまっすぐに立ち、前方を見つめている。その肩を、いかにも「寓意です」といわんばかりの女性が軽く抱き、若者の見つめている方向を指し示している。

サイトは次のように説明している: 

Geoff Archer, in his excellent book The Glorious Dead, devotes three pages to this memorial, which he describes as 'interestingly ambiguous':

Despite the obvious comparison which might be made with the propaganda image of a mother indicating to her son where his duty lay ('Go! It's your duty lad, join to-day'), the allegorical nature of the female figure seems to distance her from such a specific interpretation ... the iconography of the Clayton memorial is also remarkably similar to the imagery of popular cards produced during the war for wives, girlfriends and mothers to send to their loved ones overseas.

If Cassidy himself explained the meaning, we have yet to discover any record; to the casual visitor, the work is left to explain itself with only the anonymous poetic inscription as a guide.

http://www.johncassidy.org.uk/claytonlemoors.html

いきなり英語解説するが、《have yet to do ~》は《have to do ~》にyetを入れ込んだもので、「まだこれから~しなければならない」という意味。つまり「まだ~できていない」ということだ。だがそれは「~することはできない」の意味ではない。「~できる」ということが前提で、ただ「今のところはまだ~できていない」というときに用いる。この寓意溢れる像について、キャシディが意味を説明したものは、まだ見つかっていないのだそうだ。

 

もうひとつ、キャシディの戦争メモリアルで印象に残るのは下記。ノース・ヨークシャーのSkiptonに作られた碑だ。

www.johncassidy.org.uk

高くそびえ立つ支柱のてっぺんに立っているのは「勝利の女神 Winged Victory」で、これは戦勝国の戦争記念碑では定番だろう。一方、支柱の足元では、丸腰の――というか裸の――男が、膝に剣を押し当てて、それをへし折ろうとしている。

この「剣をへし折る男」という図像については私は何も知らないので、また今後、折を見て調べてみたいと思っている。

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Photo by Tim Green, CC BY 2.0 via https://www.flickr.com/photos/atoach/4318819139/

 

ジョン・キャシディが1922年3月にできたこの像を作っているころ、故郷アイルランドは長年の懸案だった「英国からの独立」がいよいよ具体化したものの、北部6州を他の26州から切り離して英国に残留させるという内容のアングロ・アイリッシュ条約をめぐり、条約支持派と条約反対派の対立が内戦という最悪の暴力事態になりつつあった。

アイルランドでは、ごくごく最近まで、第一次大戦で英軍に志願して従軍したアイルランド人を「敵についた者たち」と扱っていた。何よりもまず「親英か反英か」という基準でものごとをとらえるのが常だった。21世紀に入ってそれが大きく変わってきたのだが、ジョン・キャシディはその二元論が本格化した時代のアイルランド人で、イングランドを拠点とし、その芸術的才能を、イングランド人が求める「国の物語」を語ることに費やした。そのことを、彼自身はどう考えていたのだろう。

その彼が作った昔の偉人/奴隷商人の像が、21世紀になって、「過去の遺物」として民衆によって引き倒され、海に投げ込まれた(が、すぐに当局が引き上げた。このあとは博物館入りする見込み)。

 

 

ブリストルエドワード・コルストンの像を作ってから13年後、第一次世界大戦が始まる6年前の1908年、ジョン・キャシディは拠点とするマンチェスターで1819年に起きた「ピータールーの虐殺」を記念するレリーフを手掛けている。選挙法改正要求運動の中心にいたヘンリー・ハントの肖像が刻まれている。

www.johncassidy.org.uk

 

ヘンリー・ハントはオーレーター(弁舌家)として鳴らした人物だが、マンチェスターの前にブリストルで活躍していた。

Hunt became a prosperous farmer. He was first drawn into radical politics during the Napoleonic Wars, becoming a supporter of Francis Burdett. His talent for public speaking became noted in the electoral politics of Bristol, where he denounced the complacency of both the Whigs and the Tories, and proclaimed himself a supporter of democratic radicalism. It was thanks to his particular talents that a new programme beyond the narrow politics of the day made steady progress in the difficult years that followed the conclusion of the war with France.

https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Hunt_(politician)

 この "the conclusion of the war with France" が、英国の奴隷貿易禁止・奴隷制廃止への流れにどう関わったかということも、大いに注目に値する。これは映画『アメイジング・グレイス』でしっかり描かれている。あの有名な讃美歌の背後にあった奴隷商人の改悛と、その改悛に感銘を受けた若き政治家の奮闘の物語である。重要な部分がフィクションなのだが(この時代、その歌はまだ存在していなかった、など)、「現代人に伝わりやすくする」ための工夫であり、歴史改変・歴史修正主義の意図でなされた操作ではなく、全体としてかなりよい映画なので、見てみていただきたい。 

アメイジング・グレイス(字幕版)

アメイジング・グレイス(字幕版)

  • 発売日: 2018/10/01
  • メディア: Prime Video
 

 

こうして、ひとつの出来事から、時間を飛び越えてどんどん別の出来事へとつながり、またそこから戻ってくるようなことが、歴史を見ているとよくある。

さらに言えば、アイルランド人はイギリスでもひどく差別されていて、「犬とアイルランド人はお断り」みたいな扱いをされていたし、1960年代のアメリ公民権運動のときはアイルランド人は自身を「白いニグロ」と位置付けてアメリカの黒人に連帯した。その流れで発生したのが北アイルランド公民権運動で、それに対する当局の武力弾圧が、後に北アイルランド紛争へとつながっていくのだ。

 

 

*1:英メディアの一部は形式通り「カウンター・デモ」と呼んでいるのだが「カウンター」という語の意味合いから見れば非常に奇妙な用語法である。

*2:版としては、現時点で最新のこの版を参照している: https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=John_Cassidy_(artist)&oldid=962412636