Hoarding Examples (英語例文等集積所)

いわゆる「学校英語」が、「生きた英語」の中に現れている実例を、淡々とクリップするよ

昨日のエントリの補足

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【おことわり】当ブログはAmazon.co.jpのアソシエイト・プログラムに参加しています。筆者が参照している参考書・辞書を例示する際、また記事の関連書籍などをご紹介する際、Amazon.co.jpのリンクを利用しています。

【後日追記】この件についてのエントリはカテゴリでまとめて一覧できるようにしてあります。【追記ここまで】

 

今回も引き続き変則的に。今日は英文法解説なしです。

時事通信の誤訳について指摘した昨日のエントリは、当ブログには非常に珍しいことに、はてなブックマークのトップページの上の方に表示されるくらいに多くの注目を集め、ブコメもたくさんいただいた。

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今回はそれに対する「お返事」的なもの、兼、事態発生から時間が経過してまたもや別のカオスが生じている感じなので、改めて確認というか整理的なことを書きたいと思う。

昨日のエントリはこちら: 

hoarding-examples.hatenablog.jp

アップした数時間後に追記したり、タイポを修正したり、差し替えを行ったりしているので(ブクマが指数関数的に増えだしたのはその差し替えの後だが)、その中で特に必要と思われることについてもここで整理したいと思う。

とはいえ、頭の回転だけが妙に早くて、3歩歩いたら忘れるニワトリ状態になっているので、今もやっと頭の中にあることを全部言語化することはできないかもしれない。だから言葉足らずになるところはあるかもしれない。その点、あらかじめご了承いただきたい。

目次: 

 

 

昨日のエントリの論点

まずは昨日のエントリの論点(というか、昨日のエントリは何を書いたものだったか)を整理しておきたい。

論点1: 取り上げているのは時事通信の記事である。NHKの報道ではない。

昨日のエントリは、エントリ内にしつこく繰り返してあるが、"鳩山氏は「感じ良いが厄介」 オバマ前米大統領回顧録" と題する時事通信の記事に含まれる誤訳(誤解釈)について述べたものである。

ここで「誤訳(誤解釈)」と長たらしく書いているのは、「誤訳」という用語だと問題がただの訳語の選択の誤りであるかのような印象を与えかねないためである。時事通信の記事の問題は、訳語レベル以前、解釈レベル(統語論のレベル、別の言い方をすれば「文法ミス」のレベル)で起きているものであり、訳語の選択の問題よりずっと深刻である。そのことを示すため、「誤訳(誤解釈)」という長い用語をここでは用いることとする。

閑話休題。この時事通信報道とは別に、NHKも同様の誤訳(誤解釈)をやらかしていたそうだが、筆者(私)は昨日の22時過ぎにようやくあのエントリを書き終わって*122時20分にアップロードし、そのあとでタイポ修正のために読み返すなどしてさらにしばらくするまで、NHKまでもがやらかしていたということは知らなかった。よって、NHKの誤訳(誤解釈)については、昨日のエントリにおいては議論の外にあり、エントリ末尾に「追記」という形で書き加えたのみである。筆者がNHKのことを把握したタイミングでのツイートは: 

NHKのこれは、時事通信のとは別個に検証・検討されているようだし、筆者にはその余力はないので、当ブログでは触れていないし、触れる予定もない。

繰り返す。

当ブログではNHKの誤訳については特には取り上げない。実際に取り上げてもいない。

ブコメではNHKへの言及がかなり多く見られるが、当ブログではその話はしていない。あくまでも時事通信の誤訳(誤解釈)についてのみ検討している。

 

論点2: 時事通信記事に関する本質的な問題は訳語レベルの問題ではない。構造の解釈レベルの問題である。

上ですでに「解釈レベル」と書いているが、その「解釈」は「文構造の把握」を意図している。《形容詞A if 形容詞B》は重要な文構造(構文)の型で、時事通信の誤訳(誤解釈)は、中の人がこの構文を把握していなかった(知らなかった)ことを示唆している。ちなみにこの構文は、実務で使う英語としては「平易」な部類に入るだろう。うちら世代はセンター試験共通一次対策~私立中堅レベルとして高校で習っているはずだ*2

「解釈レベル」と「訳語レベル」について少し述べておこう。I have a pen. を「私はペンを持っている」とするか「筆記用具を携帯している」とするかは訳語レベルでの解釈の相違である。同じ文を「僕はカニを持っている」「私はペンを愛している」などとするのは訳語レベルでの誤訳である。

さらに言えば、この同じ文を「ペンならあるよ」とするとか、より大きな文脈の中に置いて文脈から明らかな部分を省略した形で「ほら、ここに」とする*3とかいうのは、「最低限の翻訳」とでもいうべき作業が完了したあとの、翻訳された言語での表現上の処理であり、「翻訳」という作業そのものの根幹とは別である(別だけど重要な部分)。そして言うまでもないが、そういう話は当ブログの埒外にある。そこに関心がある方は、翻訳者(特に文芸翻訳者)の方々のご著書をご参照いただきたい。

一方でI have a pen. を「ペンが私を持っている」などとするのは(そもそも意味不明だが)解釈レベル、文構造の把握のレベルでの誤りである。(この例では主語と目的語を逆にしてしまっている。)

I have a pen. 程度の文であれば、解釈レベルの誤訳をすることはありえない。今、上の例を考えるのも一苦労したほどにありえないレベルだからだ。

だが文の構造が複雑になってくると、この「解釈レベルでの誤訳」が増える。これが意外と厄介である。

例えばSVOCの構造をしたIt makes me wonder. を「私は不思議に思う」と訳出している場合、それは必ずしも誤訳ではなく、「それが私に不思議に思わせる」という、日本語ではあまりにぎこちなく不自然な表現を自然なものに置き換えたのかもしれないが、同時に、本当にSVOCの構造が取れていなくて、単語の意味だけ拾って意味が通るようにつなぎ合わせたらまぐれで当たってしまっているのかもしれない。

こういうふうだから、だれかほかの人の訳した文を見て「誤訳だ」と指摘することは、実はそうたやすいことではない。意味が通らない文を見たら即座に「誤訳じゃないか」と言うのは、正常でまっとうな反応かもしれないが、ちょっとイラっとくるものはある。原文の段階から意味が通っていないものは、訳文でも意味が通らないように訳すし、意味が通っていても誤訳は誤訳なわけで、「意味が通るかどうか」だけで「誤訳」云々が取りざたされているのはどうなのよ、的な。

という具合に複雑なのだが、それでもきっぱりと「誤訳だ」と言い切れるケースがあり、今回の時事通信の《形容詞A if 形容詞B》を「形容詞Bだ」と解釈している事例はその一つである。

これは《形容詞A if 形容詞B》という《構文》を知らないことに起因した誤訳(誤解釈)で、何なら「誤読」と呼んでもいい。この程度の英語力では、翻訳はおろか、英語で情報収集することも困難だろうというレベルだ。

 

論点3: そのうえで、時事通信記事には訳語レベルの問題もある。

上述したような「解釈レベルの誤訳」に加えて、時事通信記事には「訳語レベルの誤訳」もある。それがあちこちで話題沸騰中の awkward という語だ。

辞書を見てもらえればわかるが、これは元より多義語で、かなり扱いにくい。しかもコンテクストに依存している。

コンテクストというのは「文脈」より広いものを表すのだが、話者の立場や態度なども含んだ社会の中の言語としてまっとうに機能するにはどうしたらよいか的なことだ。例えば、「おいしい」「美味い」「美味である」など、同じ《意味》を表す日本語でも、誰が話す言葉なのかによってどれを使ったらいいかは変わってくる。5歳児は「このリンゴは美味である」とは言わないだろう。ハイソな感じのグルメ雑誌の評論家が「〇〇と△△のマリアージュがメチャうま」と書いていたら、ちょっと調子が狂ってしまう。

今回のオバマ回想録のケースでは、アメリカ合衆国という覇権国家の大統領職にあった者が、他国の政治リーダーについて "pleasant if awkward" と述べた場合、それはどう表されるべきか? それがコンテクストだ。

だが、時事通信記事の「訳語レベルの誤訳」はそれ以前で、辞書に「〈立場・問題などが〉やっかいな」、「〈人が〉どぎまぎした」、「〈人・動作などが〉ぎこちない」と書かれているときに*4、あえて「〈人が〉やっかいな」となる独自の珍解釈を、根拠もなく持ち込んだことによる。

とかいうことを言うと「辞書を妄信する権威主義者め」と罵倒されるのがこの世界の常なのだが、辞書はエビデンスの塊である。常に従うべきとは限らないかもしれないが、このケースでは無視してよいというのならその根拠を示さねばならない。そして時事通信記事にはそれができていない。よって「誤訳」なのである。

……ということを手短に言うと「ふつーそーゆー解釈はしねーよ」です(実際にあの記事の記述と原文と突き合わせたときに最初に私の口をついて出たのがこのことば)。

 

※awkwardをどう訳すかという問題

特に翻訳者の方々はここが気になっていて、Twitterなどでもこれについて意見交換・情報交換・議論が盛んだが、後述の問題とも関連して、当ブログは実はそこまでは扱おうとはしていない。(私個人は気になってることはメモったりしてるけど。)

当ブログは、あくまで、「学校で習う(習った)英文法」を扱うことを目的としており、それは「構造」を読み解くとはどういうことかというテーマであり、筆者の能力的にも労力的にも、「(優れた)翻訳」などというものは到底扱えない。

だからその点では至らない部分はあるかと思うが、そういう不十分な場であってもなお、「訳語を考える以前に何をすべきか」(というか、翻訳という作業をする人は誰もが、瞬時にこういう手順を踏んでいる。これができないと話にならない)ということについてはある程度は説明ができるだろうと思っている。その多くは、いわゆる「学校文法」でカバーされているからだ。

 

論点4: 「~と指摘した」「~と酷評した」のメディア用語は印象操作に使われるので要注意である。

時事通信の記事は、カギカッコを使ってオバマ回想録をぐだぐだに誤訳した訳文を引用したあとに、地の文として「~と指摘した」「~と酷評した」と方向性を定めて読者に提示するスタイルである。

このスタイル(文体)自体はメディア用語、特に新聞記事で使われる決まり文句として日常にあふれかえっていて、使ってる本人も意味を厳密化せずに「~と言った」の置き換え語くらいに扱っているかもしれないが、読者としてはその言いぶりによって印象を規定されるわけで、これが出てきたら身構えて二度読みするくらいでちょうどよい。

日常生活で、「~と指摘する」は、「先生は私の答案の計算ミスを指摘した」とか、「気候変動は人為的なものであると指摘されている」など、中身・内実・実情のあることにしか用いない表現だが、メディア用語としては何でもありである。「夫は傘を電車の中に置き忘れてきたと指摘した」なんていう短文を組み立ててみれば、そのナンセンスさがわかるだろう。新聞で「〇〇大臣は~と指摘した」と書かれていても、「~」の部分が何か意義深いことであったりとか、しっかりした裏付けがあることであったりするとは限らない。「〇〇大臣は、『30年後の自分は何歳かなと発災直後から考えていた』と指摘した」という文は、普通の日本語としては意味不明だが、新聞記事ならそれらしくなる。

なお、この事例では「~と酷評した」のほうは原文を誤読していることに基づいた誤解であり、オバマ氏は別に「酷評」などせず、淡々と事実を書いただけだ。淡々と事実を書くと「批判するのか」と食って掛かってくる勢力はどこにでもいるが(「世界的にみれば日本語はマイナー言語」などとまっとうな指摘をしようものなら、くわばらくわばら)、時事通信の中にも「事実の指摘」を「批判」と置き換える習性があるのだろう。特に歴史的事実については「淡々と事実を指摘する」ことを「批判する」と解釈して圧力をかけてくる連中、いや、人々がいるので、いろんな方面で注意を要する。ちなみにそういうのは日本だけじゃない。イングランドの言説見るとよくわかるよ。

※この論点4は、案の定、アップ時には書き忘れていたので、アップの翌日に書き足した。頭が回転しすぎて3歩歩けば忘れるニワトリ脳になっているときは、とりあえず頭の表面にあるものを全部ばーっと出したあと、一晩寝て起きれば、運がよければこのように「あっ、あれ忘れてた!」というものが出てくるが、いつもそうとは限らない。そもそも今回は、前日に書いたもののまとめなんだから、最初っから忘れるなよという話である。「年は取りたくない」という面もあるという指摘もある。

 

昨日のエントリで追求していないこと

当ブログは「翻訳」は扱っていない

ここまで説明してきたように、当ブログは、学校で習った(はずの)英文法の知識を使って、教材の英語ではなく実際に英語話者が読み書きしている英語の文構造を把握して、その英語の文を正確に読めるようにしていこう、というのが主旨である。(これを、別の観点から言うと「いわゆる『生きた英語』の中に、学校で習った英文法がどういうふうに出てくるかを見ていこう」ということになる。)

当ブログでは要所要所に英文に対応する日本語の訳文をつけているが、それは「翻訳」ではない。「訳」ではあっても「翻訳」ではないなどというと混乱させてしまうかもしれないし、「翻訳」というのが何か特権的な素晴らしいことのように見えてしまうかもしれないが、「文意が把握できているかどうかを確認するための参考訳」と、「英語の原文がしょい込んでいるもの、運んでいるものをすべて、なるべく忠実に、日本語の読者に伝えることを目的とする翻訳」とではそもそもの目的が違う。どちらも重要だが、どちらかがどちらかの代用になるわけではない。

当ブログは「翻訳」は扱っていない。

まあ、これは「中の人」だからそういう区別をしているという話であり、「英語では読めないから日本語で読みたい」という読者の立場ではどっちでもいいのかもしれない*5

でも、当ブログは「翻訳」は扱っていない(大事なことなので二度言いました)。そこはご了解いただきたい。

 

「翻訳」に必要なもの

翻訳にはいろんなものが必要だ。物理的にも知識的にも。

物理的に

前にも書いたが、翻訳者は感覚で仕事をしているのではなく、膨大なエビデンスに基づいて論理的・解析的に仕事をしている。ここで言う「膨大なエビデンス」は先人たちが残してきた膨大な訳例・訳語のデータベースで、それをパッケージ化してあるのが辞書だ。辞書はすべてがデジタル化されているわけではなく(そのことをバカにする者は、頼むから翻訳者の前では黙っててほしい。むしろ「デジタル化されていない資料」を相手にするすべての人の前では、と言うべきか)、翻訳者は周囲に物理的に塔を構築している。まさに「バベルの塔」みたいなものを。うちのはこないだ積読本が倒壊したあおりをくって、研究社の大辞典の上に国際法の辞典や受験生用の単語集が載り、一番上にティモシー・スナイダーと遠藤周作がトッピングされている(こらこら)。(すいません)

うちの積読タワーのことはまあいい。そうしててもまだ、「持ってない辞書」などいっぱいあるし、古い辞書を見た方がわかりやすいということもよくある。例えば今回の《形容詞A if 形容詞B》ではLongman Dictionary of Contemporary Englishの1987年版が格段にわかりやすかった (h/t @kmiura)。

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https://twitter.com/kmiura/status/1329260857390489605
物理的なものとは別にーー当ブログは何をしていないか

さらに、物理的なものとは別な、ことばという広大な海のような森のようなものの中で何をどうするかということについての決定軸も必要だ。

例えば5歳児は「このリンゴは美味である」と言わずに「リンゴ、おいしいよ」と言うだろうから、5歳児の言う "This apple is delicious" や "This apple tastes good" という文を日本語に「翻訳する」ときにはそのような日本語を使う。でも、「意味が把握できればいい」ときなら「美味である」だってかまわない。

先日たまたま見かけたので例に出すが、『コスモポリタン』という女性向けのエンタメ&ファッション&ライフスタイル情報誌の翻訳が、そういう点でとてもまじめな仕事をしていると思う。ここの記事に入っている「海外セレブ」の発言の訳文は、日本語圏の一般メディアで当たり前に強制されているバカみたいな、女と言えば「だわ・のよ」という一律の基準*6を採用せず、「だわ・のよ」は必然性のあるときだけ使われているので非常に読みやすいし、何より、人間の言葉を読んでいる感じがする。一例として、アン・ハサウェイの謝罪の言葉が丁寧な「です・ます」で訳されているこの記事を読んでみてほしい。それからアリアナ・グランデの発言が「です・ます」のこの記事も。どちらも「ごく普通」という印象かもしれないが、そのように「普通」であるべきところに、日本語圏においてのみ、「だわ・のよ」で過剰な人格をかぶせられているのが、彼女たち女性の「海外セレブ」だ。

同じことは「だぜ・のさ」でしゃべらされる男性のロックスターや、自動的に「だよ・だね」などにされる男性スポーツ選手にも言える。日本国内のロックスターやスポーツ選手が普通に「です・ます」でしゃべるような場面でさえも、「海外の(というとき、何が意味されているかも注目すべきだが)人」ならば自動的に「だぜ・のさ」や「だよ・だね」や「だわ・のよ」。

「間違いだと思ったので抗議しました」としゃべっているはずなのに、「間違いだと思ったわ。だから抗議したの」や「間違いだったから抗議したんだぜ」にされてしまったときの、印象の問題。

インタビューなどではなく普通の翻訳でもそういうことは起こりうる。

誰かが「私」を主語に自分の体験などを書いている回想録や手記を丸ごと翻訳する場合、もともと日本語をしゃべっていないその「私」にどのように語らせるかは、直接的には、翻訳を担当する人が決定することになる。その作業には神経の細やかさ・繊細さも要求されるし、その本を書いている「私」についての知識、「私」との距離感、「私」への思い入れといったものも試される。

本当に「翻訳」するのなら。

だから「オバマ氏ならこんな言葉遣いはしない」といった基準が重要なこともわかる。

しかし、オバマ氏の回想録を日本の報道機関が誤訳して伝えているということを指摘するために、オバマ氏にそこまで入れ込むことが必要だろうか。筆者(私)はそうは思わない。

同時に、awkwardなどという(特にアメリカ英語では)難しい単語について、「これが正解の訳語だ!」と示すことが、「誤訳(誤解釈)の指摘」程度の場でできるなどとも思っていない。

だから昨日のエントリにおいては、「awkwardは多義語であり、意味の確定は一筋縄ではいかない」ということを示し、なおかつ「特に人について用いる場合には『どんくさい』『踊りが下手』から『コミュ障』まで、いろんな意味がある」ということを示した。

その中の何が「正解」ということはあえて示していないし、示せるはずもない。1冊全部読まなきゃ無理なレベルの話だ。それもオバマ氏について相当詳しい人が。

 

そこまでやらないのならば、"pleasant if awkward" という構造についての指摘もすべきではないと言われたら、はいそうですか、としか言えない。そして、筆者(私)は二度とバラク・オバマについて書くまい。今のところ、そこまでは言われていないと思うが、念のために書いておく。

 

 

ちなみに、これ言っちゃおしまいかもしれないけど、そもそも私、オバマ好きじゃないんだよね。米大統領はもともと「スター」的な存在なのかもしれないけど(ビル・クリントン参照)、バラク・オバマの軽薄さ、言葉の軽さたるや……2011年から13年くらいにシリア情勢を見てた人でオバマが好きな人はほとんどいないと思う。何が「レッドライン」だっての。もっぺん言ってみ? 拷問されて虐殺された人々、樽爆弾で殺された一般市民たちを前に? 

それからドローン戦争。これだけでもう十分。

「保護する責任」という高尚な理想を殺したのはこの人の政権ですよ。大切に受け継いでいかなければならないものだったのに。直接的にこの理想が終わらされたのはリビア介入で、リビア介入は主導したのはアメリカではないので(イギリスとフランス)、全責任がオバマ政権にあるわけではないかもしれないですけど、シリアについてはね、もう怒りしかない。なぜ "Assad must go" などとパブリックな場で言ったのか。本当に現場にいる人々を守るということについて、どう考えているのか。言葉は華麗だけど、とにかく口が軽すぎるんだよ。巧言令色鮮し仁(怒)

あと、古い話だけど、北アイルランドについて「和平合意後に両派を隔てる壁は消えた」という事実に反する発言(実際には合意後に壁は増えた)。事実確認してからしゃべれ……。

だからといってトランプがよいというわけじゃないですからね。トランプは論外です。

 

※8100字以上

 

ブコメへのお返事は明日。

 

 

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*1:あれだけの情報量、あれだけの文字数を実質3時間で書いたわけで、本来は虚脱してリセットしたかったのだが……。

*2:穴埋めや並べ替えの文法問題で問題集に出てきてたと思う。

*3:これは映像翻訳に多い処理。

*4:これらの訳語は『ジーニアス英和辞典 第5版』による。

*5:そのわりに、「学者の訳した本は翻訳調で読みにくい」などという悪評が立てられて、その結果、「読みやすい訳文」こそが「正義」みたいな顔をするようになり、「読みにくい正確な訳」よりも「流暢な誤訳」のほうがありがたがられたりする場面すらあるのだから、こちらとしてはいいかげんにしてくれという話だが。ちなみに翻訳に関する「貞淑な醜女、ふしだらな美女」のアナロジーは当然当方は知っているので、マンスプレインには及びませんからよろしくね。

*6:ヘレン・ミレンみたいな人が「だわ・のよ」なのはいいんだ。だがカート・コバーンコートニー・ラヴの娘みたいな人が「だわ・のよ」なのは何なんだぜ。

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