Hoarding Examples (英語例文等集積所)

いわゆる「学校英語」が、「生きた英語」の中に現れている実例を、淡々とクリップするよ

やや長い文, provide A with B, a chance to do ~, have one's sayなど(内戦を超え、独立を問うレファレンダムを実施する島)【再掲】

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このエントリは、2019年11月にアップしたものの再掲である。

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今回の実例は、南太平洋の小さな島のニュースから。

地図帳が手元にある人はそれを開いてみていただきたい(地図は、世界史年表についているのでも何でもいい)。日本の本州から太平洋をずっと南に進んでいって赤道を超えたところにあるかなり大きな島がニューギニア島。ここは東西真っ二つになるように国境線が引かれていて*1、西側はインドネシア領、東側はパプアニューギニア(頭文字を取ってPNGと表記される)という独立国のメインランドになっている。

PNGという国は、そのメインランドのほか、周辺にある島々を集めてひとつの国を構成している。その島々のひとつがブーガンヴィル島 (ブーゲンヴィル島: Bougainville Island) である。この名前からは、花の「ブーゲンビリア」が容易に連想されるが、この島とその花とは直接関係はない。ただしどちらも、18世紀から19世紀初頭にかけて世界を巡ったフランスの航海者、ド・ブーガンヴィルに名前の由来がある。

この島は、19世紀の帝国主義の時代はドイツ領とされ、20世紀は第二次世界大戦(太平洋戦争)の戦場とされる時期もはさみつつ*2、オーストラリアの統治下とされたあと、1975年のPNGの独立の際にPNGの一部となった。しかし1988年には島のPNGからの独立運動が起きる。20世紀後半、西洋諸国から独立した国で、さらに分離独立運動が起きることが頻発したが、多くの場合、その背景には豊富な地下資源をめぐる思惑があった*3。ブーガンヴィル島の独立運動も例外ではなく、この島には世界最大級の銅山があった。独立運動を戦った軍事組織、「ブーゲンビル革命軍 (BRA)」についてのウィキペディア記事から: 

ブーゲンビル革命軍(英語: Bougainville Revolutionary Army, BRA)は、パプアニューギニアからの独立を求めるブーゲンビル島の先住民たちによって、1988年に結成された軍事組織。

BRAの指導者たちは、ブーゲンビルは民族的にはソロモン諸島の一部であると論じ、島内で展開されていた大規模な鉱業は地元に利益をもたらしていないと主張した。1989年、BRAの指導者たちはパプアニューギニアからのブーゲンビルの独立を宣言し、ブーゲンビル暫定政府を樹立した。この結果、BRAと、オーストラリアの支援を受けたパプアニューギニア政府軍との間で、戦闘が激化していった。

1991年1月、ホニアラ宣言(で停戦が合意された)。しかし、停戦は程なくして破れ、戦闘は継続した。1997年、国民会議党のビル・スケートがパプアニューギニアの首相に選出され、ブーゲンビル紛争の平和的解決を最優先の課題とすることを公約した。

こういった取り組みの結果、the Bougainville Peace Agreement (BPA) という停戦協定(和平協定)で1988年12月から1998年4月まで続いた内戦は終わり、2005年にはブーガンヴィル島に自治政府が発足した。 

この協定には、「2020年6月までにブーガンヴィルの独立を問うレファレンダム(住民投票)を実施すること」と明記されていた。そのレファレンダムが、紆余曲折はあったものの、今週末、2019年11月23日から12月7日の日程で実施されるということで、そのレファレンダム実施委員会の委員長を務めるバーティ・アハーンがガーディアンに寄稿している。今回はその記事を見よう。記事はこちら: 

www.theguardian.com

バーティ・アハーンは1997年から2008年までアイルランド共和国の首相を務めた政治家である。日本で多少でも知られているとしたら「アイルランド経済を『ケルトの虎』と呼ばれるまでの好調に導いた政治家」としてかもしれないが、国際社会で彼が今なお一定のステータスを持っているのは、2008年のリーマン・ショックであっけなくポシャった「ケルトの虎」(「ケルトの猫になった」と言われた)の功績のためではなく、前任者の仕事を引き継いで、1998年4月のベルファスト合意(グッドフライデー合意)を実現に持ち込み、誰も終わらせることができないと思われていた北アイルランド紛争を終わらせたという功績による。グッドフライデー合意は実に交渉のたまもので、つまり当事者すべてから一定の「妥協」を引き出したことでようやく成立したのだが、今回のブーガンヴィル島独立レファレンダムについての文章でもそういったことが語られている。

 

実例として見るのは、記事の中ほどの部分から: 

f:id:nofrills:20191121164035j:plain

2019年11月21日、the Guardian

Voting begins in the referendum on Saturday and provides more than 206,000 Bougainvilleans in a country of nearly nine million people with a democratic chance to have their say about their future through an internationally recognised process.

ここで太字にした "provides" は、それを見たら、読む側は "with ~" を予期して読み進めることになる、という語である。《provide A with B》で「AにBを供給する、与える」という意味になるからだ。

  The emergency team provided the victims with blankets and water. 

  (緊急救援チームは被災者たちに、毛布や水を供給した)

だから、上記引用部分は次のように見えてくるはずである。

Voting begins in the referendum on Saturday and provides more than 206,000 Bougainvilleans in a country of nearly nine million people with a democratic chance to have their say about their future through an internationally recognised process.

《provide A with B》の "A" の部分が妙に長くなっているが、このように重要な部分を太字にする感じでマークできれば、文意は取れる。逆に、provideとwithの組み合わせを知らない人は、この文を見てもおそらくぼや~っとしか意味が取れないだろう。だから単語・熟語・文法の基礎知識は重要なのだ。

 

ともあれ、この《provide A with B》の "A" の部分だが、スラッシュを入れると次のようになる: 

provides more than 206,000 Bougainvilleans / in a country of nearly nine million people with ...

「900万人近い人々のいる国において、20万6千人以上のブーガンヴィリア人に……を与える」という意味がすっきり取れていればOKだ。

 

そしてwithの後だが: 

a democratic chance to have their say about their future through an internationally recognised process.

a chance to do ~は「~する機会」で(ちなみに、このto不定詞は形容詞的用法である)、have one's sayは「意思・意見を表明する」。

したがってこの部分は、「自分たちの未来についての意思を、国際的に承認されたプロセスを通じて表明する民主的な機会」となる。

 

 

バーティ・アハーンのこの文章は、今回のレファレンダムについて、実施にこぎつけたことそのものをポジティヴにとらえてわかりやすく解説しているよい文章である。英語としても特に難しいところはなく、「平易」といってよいかもしれないような、気取りのない文章だ。多少背景知識がないと読みづらい箇所もあるかもしれないが、その点は本稿前半で私にできる範囲で解説したつもりである。あとは各自で、全文をお読みいただければと思う。

 

参考書:  

徹底例解ロイヤル英文法 改訂新版

徹底例解ロイヤル英文法 改訂新版

 
英文法解説

英文法解説

 

 

*1:この国境線は、19世紀の帝国主義の時代に西洋列強がこの島を植民地化し、オランダとドイツとイギリスの間で勝手に分割したことによる。西側はオランダ領とされ、そこからいろいろあって(いろいろありすぎるのだが)今日のインドネシアになった。東側の北半分はドイツ領、南半分はイギリス領とされた。イギリス領の部分はその後オーストラリアに継承された。第一次世界大戦でドイツが敗北すると、島の東半分はオーストラリアの統治下におかれた。第二次世界大戦でめちゃくちゃなことになったあと、戦後は引き続きオーストラリアが統治したが、1975年に「パプアニューギニア」という独立国家となった。そのあたりのことはウィキペディア日本語版でも確認できる。

*2:日本語圏でこの島の名前でウェブ検索すると、第二次大戦で日本軍が大量死したことやその関連の記述ばかりが上に来るようだ。現在のことというよりも。

*3:それに加えて、東西冷戦の構図、つまり「防共」という名目もあることが多かった。これについてはインドネシアの例を参照するとわかりやすいだろう。衝撃的なドキュメンタリー映画『アクト・オブ・キリング』を参照。

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