今回の実例は、文法というより語法というかボキャブラリーに関するもの。
2018年4月23日、月曜日のランチタイムが終わったころの時間に、カナダの大都市トロントで、オフィス街の道路をヴァンが暴走して歩道を歩いていた歩行者に突っ込み、10人の尊い命が奪われ、16人が負傷した。これは機械的な原因や人為ミスが原因の「車の暴走」ではなく、「車を武器としてそこを歩いている人々を殺傷するための攻撃」だった。
当時イスラム主義武装勢力の共感者が、そういう方法での攻撃を世界のあちこちで行っていて、まだ死傷者数も確定せず、逮捕された容疑者の身元もわかっていない段階で、Twitterなどでは「またイスラム過激派のテロか」という感想というか感情の言葉みたいなのがいろいろ出ていたのだが、イスラム過激派のやり口とはいろいろ違うところもあり、当時既に増加していた極右過激派のテロではないかということも取り沙汰されていた(トロントは多文化都市で、特に東アジア系の移民が多いことで有名だ)。
しかしその後、本人のFacebookの投稿などから判明した事実は、逮捕時に警察と対峙したときに「撃てよ、俺の頭を撃ちぬけよ」と挑発していた容疑者の男はイスラム過激派でも極右活動家でもなく、女性との関係を作りたいのに作れないことで女性一般と社会を恨み、殺意を抱いていた人物だった。いわゆる「インセル」である。
「インセル」であることが無差別に人を殺す動機となりうることを世界に示したのは、2014年5月の米カリフォルニア州での無差別連続殺傷事件だったが(加害者は死亡)、この異様な事件は単発の特異なケースとして終わるのではなく、ひそかに世界各地に共感者を増やしていた。そのあらわれのひとつが2018年4月のトロントでの車暴走攻撃だったわけだ。この攻撃について、詳細は、ウィキペディア参照(日本語版では立項すらされていない。これは立項しておく価値があると思うけれど、立項したらたぶんネット上の日本語圏で攻撃されるから私はやらない*1):
さて、今日またこの事件がニュースに出ていたのは、この事件の加害者を被告(被告人)とする裁判で、判事(裁判長)が「有罪」との結論を示したためである。量刑が出るにはまだ少し日数がかかるが、法廷での「被告人は自身の行為の結果を理解することはできなかった(法的責任能力はなかった)」という弁護側の主張は認められないという結論が出たのである。
判決を示すにあたり、判事は特筆に値する行動をとった。被告人の名前を一切出さなかったのである。それは「被告人の人権に配慮したため」とかそういうことでは全然なく、「悪名を高めることを欲している被告人に、その望みをかなえさせないため」という理由のことでだった。
Ontario superior court justice Anne Molloy said the accused had craved infamy for his killings, and refused to use his name, referring to him throughout as “John Doe”.
文構造が単純なようで実は難しいのだが、下線で示した "and refused" は、"Ontario superior court justice Anne Molloy said" とつながっている(形式からだけでは、"the accused had craved ..." の "craved" とつながっているようにも読めるが、意味・内容を考えて解釈しなければならない)。「オンタリオ州最高裁のアンヌ・モロイ判事は、被告人は自身のなした殺人によって悪名を高めることを欲していたと指摘し、彼の名前を使うことを拒絶し、一貫して彼を『ジョン・ドゥー』と呼んだ」というのが文意である。
この "John Doe" というのは、英語圏で「身元不詳の男性」、つまり「名前がわからない男性」を法的文書などで呼ぶときの仮の名前である。日本語で言えば「名無しの権兵衛」みたいなものだ。女性の場合は "Jane Doe" という。英語版ウィキペディアにエントリがあるが、あまりすっきりした記述ではないので読んでもよくわからないかもしれない。そして、日本語版ウィキペディアには、例によって、立項すらされていない。
固有名詞のことだから、本当にJohn Doeという名前の人がいないとは限らない。Doeというファミリーネームはありうるからだ(これが「名無しの権兵衛」の意味として定着している英語圏であえてこの名前を子供につける親はいないだろうが)。実際、例えば、芸名ではあるが、John Doeというミュージシャンはいる。日本のXというバンド(ヨシキとかがいるバンド)がX Japanと名乗らざるをえなくなったきっかけの、米LA拠点のXというバンドのベーシストだ。パンクの人だから世間を挑発する感じでこんな名前を名乗っているんだとずっと思っていたところ、今回ウィキペディアを参照して初めて知ったのだが実際のファミリーネームがDuchacさんということで、Doeはそのもじりでもあるのだろう(第一音節が同音)。
余談だが、LAのXは女性ヴォーカルのパンク・バンドで、1970年代に結成。今も活動している。一番有名なのはたぶん、ジミヘンのカバーで有名なWild Thingのカバーだと思う。映画でも使われていた。
X Wild Thing Original Music Video
今回、カナダの裁判所の判事が被告人を「名無し」扱いしたのは、通例の、"name and shame" (名前を社会的にさらして恥を負わせる)という発想とは真逆だが、いわゆる「ローンウルフ」型の、思想(イデオロギー)を動機とする無差別大量殺人では、その思想を抱く人々の間で実行者が讃えられ、英雄視されることが非常によくある。「ヒーロー」となった殺人者は、次の殺人者を生じさせるのだ。
例えば2年前の2019年3月のニュージーランド、クライストチャーチでのモスク連続銃撃テロでは、実行者のオーストラリア人の男は、2011年にノルウェーで過激思想に染まった人物が行った大量殺人に触発され、その実行者を英雄視していた。そしてニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相は、公的な場で、そのモスク襲撃実行者を名前で呼ぶことを拒否した。
語られるべきは加害者の名前ではなく、殺された被害者の人々の名前である。
トロントの事件で亡くなった人々の名前と年齢:
The ten victims killed in the attack, ranging from 22 to 94 years old, were:
Beutis Renuka Amarasinghe, 45, nutritionist
Andrea Knafelc Bradden, 33, Slovenian-Canadian account executive
Geraldine Brady, 83, Avon saleswoman
So He Chung, 22, University of Toronto student
Anne Marie D'Amico, 30, financial analyst
Mary Elizabeth "Betty" Forsyth, 94, retiree
Chul Min "Eddie" Kang, 45, chef
Ji Hun Kim, 22, Seneca College student from South Korea
Munir Najjar, 85, Jordanian retiree visiting family
Dorothy Sewell, 80, retiree
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