Hoarding Examples (英語例文等集積所)

いわゆる「学校英語」が、「生きた英語」の中に現れている実例を、淡々とクリップするよ

時制の使い方, 疑問詞節, not only A but B, as well as ~, wrongという単語の意味, など(東日本大震災: wrongnessという感覚)

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今回は、前回(3月11日付)の続き。背景説明などは前回のエントリを参照されたい。

実例として参照するのはこちら、日本外国特派員協会 (The Foreign Correspondents' Club of Japan: FCCJ) が毎月出している会報 "Number 1 Shimbun" の2021年3月号である: 

https://www.fccj.or.jp/sites/default/files/2021-03/03-March-2021-Number1Shimbun-final.pdf

この記事を書いたジョナサン・ワッツ記者(英ガーディアン、以下「ジョンさん」)は、東アジア特派員として、インドネシアスマトラ島沖地震による津波(2004年12月)や、四川大地震(2008年5月)で大きな被害が出た町に入り、取材を行っていたが、2011年3月に日本で起きた東日本大震災津波に襲われた東北地方の沿岸部の町に入ったときのことを、10年後の今、次のように回想している。

なお、(福島市ではなく)福島第一原発が立地する福島県浜通りのことが、英語では、双葉や大熊といった地名ではなくFukushimaの名前で言及されることがある。単なる言語的な事実の観察なのだが、このことを特にTwitterのような場で日本語で言う勇気は私にはない。「フクシマ呼ばわりするのか」と袋叩きにされることは目に見えているからだ。自分たちだって、なじみのない言語の地名をどれほど正確に使っているか、使えているか、使おうとしているかを考えてみればよいが(例えば日本語圏での「海外」や「欧米」の雑な使われ方を考えてみてほしい。あるいは「アイルランド」と「北アイルランド」を区別しなければならないものだと認識している人が、実はそう多くないことなども)、細かく正確にしようとすればするほど、情報を何かめんどくさいものにしてしまう固有名詞というものはある。そういう場合はがっさりと、通りのよい固有名詞が広く用いられるようになる。そして実際に、あの原発は「福島第一原発」と名付けられている。したがって、あの原発があるのは福島であり、それはアルファベットで書けばFukushimaである。もしもあの原発が別の地名を取って呼ばれていたら、その地名が広く用いられていたであろう。そもそも2011年3月、世界各国から次々とジャーナリストが日本に来て取材を行っていたころは、「福島第一原発(の二号炉)」と「福島第二原発」の混同すらあったくらいで、FukushimaもDaiichiもDainiもまったく未知の固有名詞だったのだ。(DaiichiとDainiが固有名詞ではなくfirstとsecondの意味であることも、漢字文化圏の人にしかわからないことである。)

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https://www.fccj.or.jp/sites/default/files/2021-03/03-March-2021-Number1Shimbun-final.pdf

キャプチャ画像の第4文で、「当時、報道の中に、少なくとも直接的な形では取り入れられなかったことを、今書いてみることが、(被害のすさまじさという改めて述べるまでもないことを述べることに比べて)より興味深いのではないか」と述べて、この文章は本題にはいっていく。この前置きのような部分で、次のように時制が使われていることに注意することは、「書いてあることを書いてある通りに読む」という訓練のために有益だろう。「あのとき」や「今」といった副詞を使わずに、時制で表すのだ。

Ten years on, it may be more interesting to describe what didn’t go into those reports - at least not directly.

 

その次の文。「文」というか節(疑問詞節)だけなのだが: 

In particular, how it felt to witness this not just as a journalist but as a human.

太字にした部分はおなじみ《not only A but (also) B》「AだけでなくBも」で、この場合はAもBもどちらも "as ~" の形である。

参考書の要領で日本語にすると、この文(節だけだが)は「とりわけ、ジャーナリストとしてだけでなく、ひとりの人間としても、これを目撃することはどのように感じられるものであったか(ということ)」。

 

そして次。前の文の《not only A but (also) B》に続けて、《as well as ~》が使われている。

As well as horror, unease and sympathy, the most surprising sensation was of wrongness.

これは《A as well as B》が《as well as B, A》という形で使われているもの。つまり下記のように書いても、文意そのものは同じである。読んだ時の印象がずいぶん違うが。

The most surprising sensation was of wrongness as well as horror, unease and sympathy. 

いずれにせよ、"as well as horror, unease and sympathy" をひとつの意味のまとまり(センスグループ)として把握できるかどうかが、正確な読解のカギになる。

文意は、参考書の要領で日本語にすれば「最も驚くべき感覚は、恐怖と不安、そして同情と同様に、wrongnessであった」となる。

この "wrongness" はどのような意味か。

wrongという単語をぽんと出して「意味は何ですか」と問えば、「悪い」とか「間違った」「誤った」という答えが返ってくるだろう。下記の文のwrongならそれでよい。

  It's wrong to tell a lie. 

  (嘘をつくのは悪いことだ)

  He made a wrong decision to go into the storm. 

  (彼は嵐の中に進んでいくという、間違った/誤った決意をした)

だが、ジョンさんが書いている "wrongness" のwrongはそういう良い・悪いの価値判断の言葉ではない。電話のかけ間違いを「間違い電話」というが、その「間違い」である。本来、かけようと思っていた番号と違う番号にかけてしまうことを日本語で「間違い」と言い、これを英語で wrong number と表す。

このwrongを、ロングマン英英辞典は "not the one that you intended or the one that you really want" と定義している。「自分が意図していたものではないもの、あるいは自分が本当に欲していたものではないもの」という意味だが、この定義がとてもわかりやすい。

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例えば、学校に塾用のかばんを持ってきてしまった場合、教科書が入っていないなどの不都合が生じる。それがwrongの状態で、塾用のかばんに何か「悪い」ところがあるわけではない。ただ、「その場にあっても、用途が違うので、使えない」わけだ。このwrongの感覚を覚えておいてもらいたい。

もちろん言葉だから、常に何か1つの《意味》だけで使われるとは限らず、意味も用途も拡大していったり別の文脈に転用されたりもするのだが、こういう「コア」のイメージは重要視すべきである。

 

ちなみに、『ひつじのショーン』のクリエイターがその前に作っていた『ウォレスとグルミット』の2作目、日本語では『ペンギンに気をつけろ!』という副題になっているが、これが原題だと "The Wrong Trousers" である。パッケージの写真でウォレスが履いているズボンがその「間違ったズボン」なのだが、これがどういうお話かは本編を見てのお楽しみ……。 

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閑話休題。ジョンさんはまだ余震が続く中、津波に襲われた町に入り、怖いなと感じたり、不安な気分になったり、被害にあった方々を気の毒に思ったりといった感情を覚えるのと同時に、強烈なwrongnessを感じていた。そのことについて、この文章はこの後で詳しく述べている。

Even more than in Phuket and Sichuan, the world seemed upside down and inside out. Giant ships were stranded in car parks, cars bobbed about in harbour waters, houses floated free of their foundations, buses were rammed into the fourth-floor of apartment blocks and children’s toys lay scattered among the ruins. Nothing was where it should be.

つまり、スマトラ沖地震での津波や四川の大震災でのすさまじい被害状況以上に、「世界がひっくり返ってしまっていた」。"upside down" は上下が逆の状況、"inside out" は裏表が逆の状況をいう表現である。

それが具体的にどういうことかは、さらにその先に書かれている。「大きな船が駐車場に流れ着き、自動車が港の水にぷかぷかと浮かんでいる」。つまり本来の居場所とは逆だ。「家屋が基礎から離れて浮かび、バスの車体が集合住宅の4階に突っ込んでいて、がれきの中に子供のおもちゃが散乱している。何一つ、本来の場所におさまっているものがなかった」

 

 

この記事の最初に入っている写真は、どこかの町(その町をよく知る方にとっては「どこかの町」ではないだろうが、私にはそう書くことしかできない。お許しいただきたい)の交差点に立つジョンさんの写真である。両脇は商店街で、片側はアーケードになっている。後方の交差点には信号機が立ち、車の重量制限や直進と右折のみ可能という標識も立っていて、ほんの少し前までは何の変哲もない街だったに違いない。だがこの写真の中で、交差点に停まっているのは自動車ではなく小舟で、路面はべたべたした感触の泥で覆われ、道路の真ん中にはプラスチックの大き目のカゴや、建物からはぎ取られたと思しき何か(看板か、軒先のひさしか)が転がっていて、後方には迷彩服の人が2人、じっとこちらを見ている。自衛隊の人たちだろう。よく見ると「災害派遣」の表示を付けた自衛隊の車両もある。

これらのものが「本来の場所」にあるのではないと感じるのは、つまり「ああ、こんなところに船がある」と感じるのは、その場に、いわば飲み込まれていない人だけなのかもしれない。このパラグラフの最後の部分で、ジョンさんは次のように書いている。

This was all the more disorientating because the setting was otherwise so familiar. After a while I realised this "wrongness" was in my mind. This was simply an alternative way for things to be. It may not seem right or normal to humans, but it was real. 

自分の心の中にもこの "wrongness" が入ってきていたと。ものがここにあるのは、特異なことではなく、単にこういうあり方もあったのだというふうに思えていたと。「人間にとっては、これが本来のあり方であるとか、正常であるようには見えないかもしれないが、これは(これが)*1現実なのだ」

この文章を通して、この部分が一番読解が難しく、そして一番深い。

何かを見て、「こんなの間違ってる」「こんなのおかしい」と感じること。そして、その場違い感、その変さが見慣れたものになってしまうと「こういうのも実はありなのでは」と思うようになること。

それは危険な、おそろしい「慣れ」なのではないかということ。

地震とは関係ない話だが、変なニュースを立て続けに見ているうちに、自分の中で基準が変わってきてしまうことがある。昨今の日本では例えば公文書の改竄をめぐる問題。世界的にはいわゆる「フェイクニュース」をめぐる何重にも重なった問題。それに、今日でちょうど10年目のシリア。それに重なるように、同じようなことが現在伝えられているミャンマービルマ)。

これらの "wrongness" に慣れてしまうと、何も「変」ではなくなる。そして「あそこはああいう土地だよね」的な雑な理解がまかり通るようになる。「あんな土地じゃなくて、日本に生まれてよかった」みたいな愛国主義まで絡んでくる。

10年前の日本の津波が、世界にものすごい衝撃を与えたのは、「決定的瞬間」を撮影した恐ろしい自然の猛威の記録映像が世界に伝えられたからだけではない。襲われたのが、コンクリートでがっつり覆われた、開発された「先進国」の都市だったからだ。「あんな近代的な町がこんなことに」という衝撃。そういう衝撃は、実は「あんな近代的な町がこんなことに」なったのでない場合も、感じられなければならないのかもしれない。

1994年のルワンダのジェノサイドを扱った、事実に取材したフィクション映画『ルワンダの涙』で、現地入りしたBBCのジャーナリストの口から、「同じ暴力でも、バルカン半島で目撃したものとアフリカで目撃するものとでは衝撃度が違う。バルカン半島では、私たちと同じような肌の色、髪の色をした人たちが暴力にさらされていて、衝撃は直接感じられた。だがアフリカではどうか」ということが、自分を批判するように語られているシーンがあった。日本版の予告編を今探してみてみたが、そのジャーナリストの影も形もないので、英語版の予告編。そのシーンは入っていないが、1分くらいのところに出てくる女性がそのジャーナリストである: 

www.youtube.com

 

※今回は6000字を超過している。

 

 

英文法解説

英文法解説

 

 

 

*1:しばらく考えても「これは」か「これが」かが確定できないので併記しておきます。雑ですみません。

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