今回の実例は、日々のニュース報道ではなくあるひとつの大きな物事を振り返るような記事から。日本の報道機関で「特集」と位置付けられるような類の記事である。
この3月は、新型コロナウイルス禍によるロックダウン(外出禁止や店舗などの営業停止を含む、厳しい行動制限)という自由主義社会では考えられなかったような過激な策が、欧米各国でも取られるようになってからちょうど1年ということで、「あれから1年」という特集記事があちこちで出ている。もちろん、このパンデミックは、例えば地震などの災害やテロ攻撃のように「発生から1年」という明確な区切りの日があり、1年も経っていればある程度の距離を取って振り返ることができる、という性質ものではなく、現在もまだ進行中である。だから「あのときはこうだった」という内容の、日本語でいえば「風化させてはならない」系の過去形のトーンではなく、あくまでも現在進行形(というか、現在完了進行形)のトーンだ。
厳しい行動制限を導入した国のひとつである英国は、世界でも状況が最も悪い国のひとつである。お手軽で申し訳ないが、英語版ウィキペディアの「新型コロナウイルスのパンデミックにおける各国死亡率」の項に一覧表があるので、その表を "Deaths per 100,000 population" (人口10万人当たりの死亡件数)でソートして見ていただきたい。
現時点で一番上に来ているのはサンマリノだが、ここは人口がとても少ないので、死者数が77人でも、100万人当たりに換算すると227.91という数値になってしまう。他にもそのような、元々の人口が少ない国というのが欧州にはいくつかあるので、それらは目に映ってもスルーするようにして眺めていくとよいだろう。
そして、100万人当たりの死亡件数でソートしたときのこの表において、死者数が6桁に達している国々の中で、最も上に位置しているのが英国の189.61人である。単純に死者数だけなら米国の538,087人が最も多いのだが、米国は人口が多いから、100万人当たりだと164.47人となる。死者数の多さでは、米国の後にブラジル、メキシコ、インドと続き、英国は5番目で126,068人となっている。ちなみに日本は死者数は8,718人で、100万当たりだと6.89人となっている。(数値はいずれも2021年3月18日時点)
(「英会話」なんかできなくったって別に構わないという人も、自力で読めない英文はとりあえずDeepL翻訳に投げればいいんで読めるようにする必要なんかないでしょと思ってる人も、ネットでの調べもので英語を使うことができれば、こういう情報に瞬時にアクセス可能だということを頭に置いておいてほしい。そこで差がついてしまうということも。)
英国は医療システムがよく整った国であり、科学の力も強い国である(「試験管ベビー」も「クローン羊」も英国の科学によるものだ)。それにもかかわらず、このウイルス禍では「世界最悪」と言える状況にある。
ウイルス禍が英国に及ぶ前に既に欧州大陸(特にイタリア)がひどいことになっていたわけで、それを注視し、先手先手で対策を立てていれば、こんなことにはならなかった、という批判がよくなされる。イタリアがひどいことになっていたころ、英国のボリス・ジョンソン首相は「ウイルス、恐れるに足らず」という態度で「私は誰とでもばんばん握手して回る」と豪語していたし、首相が「ものすごい数の死者が出る」と苦渋の表情を浮かべながらも英国政府は「(ワクチンなしでの)集団免疫 herd immunity」という戦略を取ろうとしていた(そして「集団免疫」論は、政府の記者会見で口に出されたとたんに、科学畑から異論反論が矢のように浴びせられて「疑似科学」と断罪され、政府は瞬く間に「そ、そんなの、基本方針だなんて、言ってませんよ?」と顔真っ赤にして反論しながら「集団免疫」論を奥に引っ込めたのだが)。3月中旬の上流階級の社交の場でもある競馬の「チェルトナム・フェスティヴァル」は、場内のあちこちに手指消毒ジェルを設置して普通に行われた(同じころに行われるアイルランドのセント・パトリックス・デーのイベントは中止されていたが、ブリテンではまだそういう危機感みたいなのはなかった)。
そういったことを、1年が経過して、このウイルスで126,068人もの死者を出し、このウイルスとは関係のない原因で亡くなった場合も、ロックダウン(行動制限)のために普通に親戚一同や友人たちが集まって故人を埋葬もしくは火葬するという通常の葬儀を行うことができず、いくつもの企業が売り上げを失って苦境に陥り、中には事業を継続できない状態になった企業もあり……という中で、改めて振り返っているのが、BBC Newsの下記記事である。
ICYMI https://t.co/hIBNkg3w5s
— Laura Kuenssberg (@bbclaurak) 2021年3月17日
ツイート主は記事を書いたBBC政治エディターのローラ・クエンスバーグ。以前も書いたと思うが、この人はTwitterがジャーナリスト必携のツールとなったころにいち早くTwitterを使って多くのフォローを集めていた記者で、Twitterがまだ定着しきっていなかった2011年にBBCからITVに移籍した際、Twitterアカウントをそのまま持って出ることについて「BBCの一員として集めたオーディエンスをそのまま引き連れてITVに移るのはいかがなものか」という論争を引き起こした。「Twitterのフォロワーは誰のものか」が真剣に議論されたのだ。隔世の感がある*1。
閑話休題。このツイートの本文、 "ICYMI" はビジネスメールやショート・メッセージ、チャットなどでよく使われてきた略語で、"In case you missed it." のこと。「あなたが見逃した場合には」で、日本語の同等の言い方だと何だろう、「再送しておきますね」「改めてフィードします」くらいかな。
《in case S + V》は「SがVする場合には」が直訳だが、「万が一」くらいのニュアンスが入るので、日本語の「~する場合には」をいちいち "in case ~" を使って英訳すると違和感が出る、というのは、大学受験の和文英訳の定番ネタである。
実例として見るのは、記事の一番上の部分から:
※キャプチャ画像内の文が全部太字になっているのはこれがリード文に相当する記事の第一文だからで、特に深い意味はない。
At the beginning of March 2020, I asked a senior member of the government: "Do you feel worried?" They replied: "Personally? No." But just weeks later, Downing Street was scrambling to manage the biggest crisis since World War Two.
さらっと読めてしまうシンプルな文だが、ポイントが2つある。
まず1つ目は、朱字で示した《コロン (:)》の使い方。これは、何らかの発言を(引用符でくくって)示すときに使うという用法である。現代英語ではコロンではなくコンマが使われることが多いのでやや正式、あるいは古風な印象を受ける用法だが、読みやすくてよい。
余談だが、カズオ・イシグロの最新作『クララとお日さま』は、私はまずは英語で読んでいるのだが、これにこの用法のコロンがたくさん出てくる。電子書籍で検索したら261件ヒットした。これは、語り手のクララがこのようなかっちりした英語を使うという描写の一部でもある。
キャプチャ画像の一番下の例は、下記のようにコンマを使って書いても意味は同じである。
Rosa said, 'Klara, isn't it ...'
ポイントの2つ目、太字で示した《they》は、ここでは性別を特定しないよう、heやsheの代わりに用いられる3人称単数の代名詞である。ローラ・クエンスバーグが話を聞いた議員が男か女かは、おそらくどうでもいいので言及されていない。
これについては以前書いているが、男か女かの二者択一を拒否する立場の人々が積極的に使っていこうとしている場面のほかにも、男女の特定ができていないので男女の明示を避けるとき、男か女かで考える必要のないときに単なる「あの人」「その人」の意味で使われたりもしている。その用法は実は以前からあったものでも、テクストでは目につかなかったのかもしれない。
私が英語を習ったときに教材で使われていた実際の英文では、humankindではなくmankindという語が使われ、chairman, policeman, firemanなど役職名や職業名も「男」が前提の言葉遣いだったし、「someoneやeveryoneはheで受けるのが原則」「どうしてもという場合は "he or she" や "s/he" を使う」というふうに習った。実際に「国会議員や閣僚は男ばかり」という状況なら、議員・閣僚の性別は問題になることはなく、a senior member of the governmentは機械的にheで受けておけばよかっただろう。今はそうではないので、a senior member of the governmentを受ける代名詞としてtheyが用いられているのである。
このケースについていえば、性別を明示することは、クエンスバーグに1年前に「新型コロナウイルスは個人的には大したことないと思ってますよ」という方向の発言をしたのは誰かという特定につながりうるわけで(仮にsheを使っていたら「女性閣僚だったらあの人だな」となるし、heでも絞り込みはできてしまう)、そういったいわば安全策から用いられているtheyかもしれない。
日本語は、「代名詞」などいちいち用いなくても「あの人」「その人」でOKだし、「匿名を条件に議員がこう発言した」というような場合なら「その議員」としておけばよいので、この「性別」についての問題がなかなかわかりにくい。実例を見たら注意を払って、少し分析的に読んでおくと、自分の中によい用例として蓄積されていくだろう。
※4500字
Klara and the Sun: 'A masterpiece.' Sunday Times (English Edition)
- 作者:Ishiguro, Kazuo
- 発売日: 2021/03/02
- メディア: Kindle版
*1:今では、ジャーナリストが完全に個人としてアカウントを持ち、所属機関が変わっても何も言わないのは当たり前だが、かつては「名前+所属機関」のアカウント名の人が多かったのでこういう議論がクエンスバーグ以外のケースでも見られた。BBCLauraがさくっとITVLauraになることは許容されるのか、という議論だ。