Hoarding Examples (英語例文等集積所)

いわゆる「学校英語」が、「生きた英語」の中に現れている実例を、淡々とクリップするよ

「イスラエルによる占領」とはどういうものか、ひとりの八百屋さんが撃ち殺された事件を通じて (関係副詞の非制限用法, など)

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今回は、イスラエルの新聞『ハアレツ』英語版の記事を見てみよう。

と、本題に入る前に、この1週間ずいぶんあれこれと地名が出てきたので、パレスチナの地図を確認しておこう。Google Mapsにアクセスして、検索窓にPalestineと打ち込んでみてほしい。そうすると下記のような地図が表示されるはずだ(私はGoogleは英語で使うように設定してあるので、以下、すべて英語の画面で説明する)。

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https://goo.gl/maps/jR8txck5oRNhcVtG9

この画面中央の、点線で囲まれた、何かやけに書き込みが少ない区域が、パレスチナの「ヨルダン川西岸地区 (the West Bank)」、画面左、海に面したところにある細長い区域が「ガザ地区 (the Gaza Strip)」である。私たちが現在(何となく)「パレスチナ」と呼んでいるのは、この2つの地区から成る。別の言い方をすれば、パレスチナは2つの地区に分断されている。双方を自由に行き来できるのであれば「飛び地」だろうが、現実にはそうではない。ガザ地区からの出入りはイスラエルによって厳格に管理されており、たとえ親や親族が西岸地区にいても、気軽に顔を見に行くようなことはできない。

地図上のこの点線は、「グリーンライン (the Green Line)」だ。これは1949年の第一次中東戦争の休戦ライン (1949 Armistice border) で、国連の文書などでは "the pre-1967 borders" や "the 1967 borders" と表記される(1967年というのが何なのかをここで書いているとまた本題に入れなくなるので、その点は各自お調べいただきたい)。このグリーンラインが、国際的に、パレスチナイスラエルの境界線と認められている。だからGoogle Mapsを含め、地図類では、この線が点線で書き込まれている。

しかし、2000年以降イスラエルが、西岸地区において、最初はフェンスとして、やがてはまず乗り越えられない高さのコンクリートのそびえたつ壁として建設した「分離壁」は、このグリーンラインを越えてパレスチナ側に食い込んでいる。何の権限があってやっているのか、という話だ。そうして建設された壁は、パレスチナの街や村を分断している。つまりパレスチナは、西岸地区とガザ地区に分断され、そのうえで西岸地区のコミュニティが違法な壁で分断されているのである。

さらに、ただ分断されているだけでなく、イスラエルは自分の国土ではない土地での入植地の建設ということを、この50年以上ずっとやっている(一時期、和平プロセスで中断はしたが)。……と、ここまで書いてきて既に1200字になってるので話を端折るが、本来パレスチナの土地であるはずのところ(例えば前回まで見てきた、焼き討ちを受けたブリン村に隣接する土地)に、イスラエルの入植地が作られているのはこういう経緯による。

さて、上記の地図をズームインしてみよう。まず、前回まで見てきたブリン村あたり。西岸地区の上半分(北半分)の部分の中央付近にNablusとあるのが「ナブルス市」で、その南側にいくつか地名が書かれている中に「ブリン」の名がある。

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https://goo.gl/maps/BfJ9qosF2m5x4R377

このナブルスから、南にまっすぐ数十キロ下りていくと、グリーンラインがくびれたようにぐっと東側に入り込んでいるところがある。これがエルサレム (Jerusalem) だ。このエルサレムのあたりにズームインすると、今回の一連のエントリに出てきた地名が次々と現れる。

f:id:nofrills:20210519071823j:plain

https://goo.gl/maps/hBkeBdDvbXzTvnXa7

画像の一番下にあるのが「エルサレム」、その右上にあるのが13日のエントリで、イスラエル側による住民の追い出しが行われ、それに対する平和的抗議行動が暴力的に排除されていることを説明した、東エルサレムのシェイク・ジャラ地区。ちなみにイスラエルエルサレムのことを「うちの首都ですよ?」という顔をしているが、国際的にはエルサレムイスラエルのものとは認められていない。東エルサレムとなればなおさらだが、イスラエルはそれを強引に自分たちのものにしようとしている。

シェイクジャラの少し北にあるのがベイト・ハニナ。前回のエントリの最後に、銃を持った入植者がパレスチナ人を威嚇している様子をとらえた映像を埋め込んだが、それが撮影されたのがベイト・ハニナだ。

さらにその北側にあるビル・ナバラ(ビール・ナバーラ)という地名がある。そのすぐ西、幹線道路で結ばれているのがアル・ジブという村だ。その村で、イスラエル側によってパレスチナ人を標的に行われた蛮行について、ハアレツのジャーナリストが取材して書いた記事を、今回は見てみよう。

記事はこちら: 

www.haaretz.com

この記事は1か月以上前、4月15日付の記事である。蛮行が行われたのはさらにその10日前の4月5日だ。イラク戦争のときに何度も何度も聞かされたことだが、そして北アイルランドで「歴史上の出来事」扱いされている事例について私は何度も読んできたのだが、軍人が民間人を、特に理由らしい理由もなく撃ち殺し、そしてあとから到底あり得ないようなことを理由として述べている、ということが起きた。

「またか」と思われるかもしれない。だが、この無慈悲な殺害については、何度も現地を訪れ、人々と深くつながりを得て、何冊もの著作のある写真家の高橋美香さんのブログを、必ず、読んでいただきたい。この事件は日本とつながっている。

mikairvmest.livedoor.blog

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今回のハアレツの記事は、英文を読み慣れていない人が読むのは簡単ではないだろう。ある程度読み慣れている人にとっても、分野的なハードル(中東情勢の予備知識と、軍事的な用語)がかなり高いかもしれない。

あと、英文を見たらサンプル扱いする不謹慎な私でさえ、この記事は、文を読んだら内容に全部意識を持っていかれてしまって、英文法がほとんど目に入ってこない。2度目に読んだときにif節のない仮定法や分詞構文の例を見つけたが、「この実例でこの文法項目を解説してしまったら、ブログを読んだ人がその文法項目を見るたびにこの非道を思い出すことになる」ということで、そこはスルーすることにした。

記事の最後の方の、あまり感情に訴えかけないような淡々とした記述の中に関係副詞などが出てくるので、それを実例として見てみることにしよう。

その前に、記事の内容をかいつまんで述べておく。何があったのかを知らないと、その実例の箇所も読めないからだ。

なお本稿、この時点で3200字を超えているが、今回はいつもの「4000字」という字数上限なしで書いていくことにする。そうしないと、いつまで経っても書き終わらない。

では、ハアレツ記事の内容。記事を書いたのはギデオン・レヴィ記者、写真はアレックス・レヴァック記者である。どちらもベテランのジャーナリストだ。以下は完全な要約ではなく、私の解説みたいなものも入れ込んである。正確な情報は必ず原文をご参照のうえで把握していただきたい。

******************

2021年4月4日(日)の夜から5日(月)の未明にかけて、イスラエル軍がアル=ジブ村で3度にわたって強制捜査を行っていた。アル=ジブ村と隣のビルナバラ村を結ぶ道路の中央分離帯には、イスラエル軍軍用車両が停められていた。その3週間前の3月13日に、イスラエル軍はこの村のアフメド・ガネイムという若者を夜中に叩き起こして連行していたのだが、この日は彼の家と家族が経営する商店の家宅捜索のために再びこの村に来ていた。その商店の前の中央分離帯に停められている車のところに、イスラエル軍の兵士が2人立っていた。と、そこに突然、古びたトヨタ車がビルナバラ村の方向からやってきた。

兵士の一人が懐中電灯をつけて、トヨタ車の運転手に「止まれ」と合図した。運転手はその合図に気づかなかったが、助手席の妻がそれに気づいて、ブレーキをかけてと叫んだ。兵士たちから4メートルほど行き過ぎたところで車は停止した。

少しやり取りがあったのち、兵士たちは運転手に「行ってよし」と告げた。しかしその次の瞬間、兵士たちはトヨタ車に銃弾を雨あられと浴びせたのだった。

こうして、オサマ・マンスールさんは殺された。妻のソマヤさん*1は一命をとりとめた。

ハアレツの記事には銃撃現場の道路の様子を撮影した写真がある。両側に建物が並ぶ中を走る道路は、片側一車線で、中央分離帯は幅30センチとか40センチとかそんなもんだろう。写真の中には、電柱と電線はあるが、街灯らしきものは見当たらないし、信号もない。夜中の3時前では、沿道の建物の明かりもないだろうし、自動車のヘッドライトだけだったことだろう。

銃撃が行われた地点は、3月に連行されたガネイム青年の家族が経営するディスカウント店の前だった。倒産品を安く売る店で、扱っているのは衣類や靴、香水やキッチングッズといった品物で、店の看板には「会員大特価」みたいなことが書いてあるような店。そんな店に、前の晩の夜9時半ごろになって、イスラエル軍はかなりの人数で装甲車などに乗ってやってきた。子供たちやティーンエイジャーがそれらの軍用車両に向かって石を投げ、イスラエル軍の側は催涙ガスで応じた。

イスラエル軍は、いったんは引き上げたものの、深夜になってまた戻ってきた(ここで《結果》を表す《to不定詞の副詞的用法》が使われている。 "only to return at midnight" と)。ここでまた投石と催涙ガスの応酬となり、兵士たちは何軒かの家を捜索した。その様子を見ていた人々は、兵士たちは何かをしようとしていると感じたという。
そして夜中の1時に引き上げた兵士たちは、2時半にまた戻ってきた(夜中に何やってるんだ)。今度はヴァン1台とジープ1台が、店の前の中央分離帯のところに停車し、数十メートル離れたところに2台の装甲車が停車。時間が時間だけにもう通りに出てきて石を投げる子供たちもいなかった――あの晩、何があったのかを、イスラエルの人権団体ベッツェレム (B'Tselem) のラマラ地区担当リサーチャーのイヤド・ハダドさんの支援を得て、細かく確認・検証しようと現地に赴いたハアレツの記者に、通り沿いにある自宅からマンスールさんの車が銃撃されるのを見ていた住民のアザム・マルキヤさんとバッサム・イスカールさんが、何が起きたかを説明する。

それによると、マンスールさんの車が近づいてきたとき、兵士の一人が懐中電灯で「止まれ」と合図し、車は完全に停車した。エンジンを切りさえしたという。

つまり、(イラク戦争のときにさんざん聞かされたような)「車で突っ込んできたので撃った。兵士は身の危険を感じた。自己防衛だ」というのは成立しそうにない状況だ。

オサマ・マンスールさんとソマヤ・マンスールさんは、近くのビッドゥという村の人だが、この村はかつて土曜日になるとイスラエル人の買い物客が押し寄せるようなショッピングの名所だったという(ただし、20年前に分離壁が作られるまでの話)。記事の後の方で、オサマさんがヘブライ語で話したというくだりがあるのだが、それはそういったバックグラウンドゆえかもしれない。

兵士たちの尋問に、夫妻は、妻の具合がよくなくて、ビルナバラの病院に行ってきた帰りだと答えた。実はマンスールさんたちの家族は新型コロナウイルスに感染していた。オサマさんは軽くて済んだが、お母さんのジャミラさんはコロナ専門病院に25日間入っていたというし、妻のソマヤさんはあれこれいろんな症状が出て、自宅で静養していたという(つらいやつだ……)。前ほどひどい症状が出ることはなくなっていたが、その夜、ソマヤさんはまた具合が悪くなってしまった。息子のモハメドさんも体調不良を訴えたが、5人の子供たちの中で感染したのはモハメドさんだけだった。

オサマさんは、車で野菜を売り歩いている行商人だった。ハアレツの記者たちがマンスールさん宅を訪れた日は、オサマさんが生きていれば36回目の誕生日となるはずの日だった(英文法的にはここでif節のない仮定法が出てくる)。その2カ月前まで、彼は18カ月の禁固刑に服していた。理由は、入市許可なしでエルサレムに行って、捕まってしまったこと。妻のソマヤさんは、エルサレムのすぐ北にあるユダヤ人入植地で縫製の仕事をしている。5人の子供たちと共に暮らす家は、オサマさんの両親の家の庭に立てられた小さな家で、屋根はアスベストの板でふいてあるような簡素なものだ。

記者たちがマンスールさんの家についたとき、ちょうど2人の娘さんたちが学校から帰ってきたところだった。ビサンさんとニサンさんは双子。10歳で父親を亡くしてしまった。

自宅の中では壁に掛けられたTVの上にオサマさんの写真が立てかけられている。生涯最後の晩に、オサマさんはお母さんに、ラマダンには何を買おうかと尋ねた。お母さんは、そんなに慌てなくたっていいじゃない、と答えたという。オサマさんはエルサレムのアル=アクサ・モスクの前で写真を撮っていたが、それが生涯で最後の写真の一枚となった。アル=アクサで礼拝をするためにエルサレムに入市許可なしで入ったのだが、そのときに捕まってしまったのだ。

ソマヤさんは黒い服に身を包み、顔には苦痛が現れ、血色もなかったが、感情をあらわにすることなく、涙も見せずに毅然として、記者に銃撃の晩の状況を語った。4月4日、オサマさんが仕事から戻ってきたのは夜の11時半。それから急いで、具合の悪いソマヤさんをビルナバラの病院に連れていった。私がちょっと具合が悪くなると、いつも医者に連れていってくれたんです。お医者さんは家で寝てなさいっておっしゃったんですけどね。

病院を出ると、夫は、じゃあ少しドライブでもしていこうか、一日中ずっと家から出てなかったんだろ、と。そして、こんな夜更けに営業している食料品店で、サンドイッチを買ってくれたんです。

特に変わったことはなかったです。兵隊が懐中電灯で「停まれ」と合図してくるまでは。

兵士はライフルを夫妻の方に向けて、「なぜ停車しない?」と叫んだという。それに対し、ヘブライ語がわかるオサマさんは「なぜ怒鳴りつけてくる?」と応じた。そして兵士は、どこに住んでいる、どこに行った帰りだ、といったことは聞いてきたが、身分証を見せろとも車の登録証を出せとも言わなかった。

そして、兵士に「行ってよし」と言われたので、オサマさんは車を発進させた。と、その時、ソマヤさんには、後ろから一発銃声が聞こえた。その次の瞬間には、何人かの兵士が車の前に飛び出してきて、雨あられと銃弾を浴びせた。ソマヤさんは身を守るために前かがみになったが、背中に破片が当たっていた。オサマさんが「大丈夫か」と呼びかけ、ソマヤさんは「撃たれた」と答えた。

車は大きく蛇行運転していて、ソマヤさんはオサマさんがハンドルを操作できていないことに気づいた。「どうしたの、ちゃんと運転して」と声をかけたが、もう返事はなく、オサマさんはソマヤさんの膝の上に倒れこんだ。頭から血を流して。

ソマヤさんは悲鳴を上げたが、何とか気持ちを保ち、最悪の事態を避けようと、助手席から運転席のハンドルをつかんで、アクセルを踏みつけた。

数百メートル進んだところでハンドブレーキを引いて車を停車させたが、兵士たちは追いかけてきてはいなかった。対向車線を走っていた4人の若い男性が車を止め、二人を自分たちの車に運び込んだ。オサマさんはまだ息はあったが、意識はなくなっていた。

男性たちはオサマさんをビドゥのアル=カルメル診療所に連れていき、そこで病院スタッフが救急車を手配し、ラマラの政府病院にオサマさんを急いで搬送した。ソマヤさんは軽傷の手当てを受け、オサマさんは手術を受けているところだと医師たちに告げられた。

午前4時、オサマさんの死亡が宣告されたが、ソマヤさんにそれが伝えられたのは、2時間後だった。

銃弾を浴びせられたマンスールさんの車のところに、銃撃から15分後に撃った兵士たちがやってきて、そのまま車を押収していった。それから近隣の商店や集合住宅の建物を回り、防犯カメラを外していった。その理由ははっきりしない。道路に散らばった薬莢を回収しさえもした。目撃者は、マンスールさんの車は50発くらい浴びせられていたと言っている。記者に同行して現場を見た人権団体ベッツェレムのリサーチャーのハダドさんは、兵士が見落としていった薬莢を7個、現場で発見した。

 

と、ここで英文法の実例を見てみよう。

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https://www.haaretz.com/israel-news/twilight-zone/.premium.MAGAZINE-idf-troops-shot-and-killed-a-palestinian-his-crime-driving-his-wife-to-a-clinic-1.9715059

キャプチャ画像の最初のパラグラフから: 

Osama’s body was transferred to the forensic medicine institute in Abu Dis, outside Jerusalem, where a postmortem was performed.

太字で示したコンマと "where" は、《関係副詞の非制限用法》で、先行する "the forensic medicine institute in Abu Dis, outside Jerusalem" を説明している。「オサマさんの遺体は、エルサレム近郊のアブー・ディスにある法医学研究所に運ばれ、そこで検死が行われた」という文意である。

postmortemはperformするものだというコロケーションにも気をつけておこう。

次の文: 

Its findings haven’t yet been published, but as far as is known, only one bullet hit him, in the head.

太字にした部分は《現在完了の受動態》で、ここではyetを伴い「まだ~されていない」の意味。「検死の結果はまだ公表されていないが」というのがこの文前半の文意だ。

そして問題は下線部の "as far as is known". ときどき見る形で、 "as far as S know(s)" の "S know(s)" の部分を受動態っぽいものに置き換えたもの。例えば "as far as I know" だと「私の知る限り」であり、「私以外の他の人はどうだかわからないが」というニュアンスが出る。

例えば、東京五輪について調べている人が、誰かから「私の知る限り、東京五輪は当初予算を大幅に超過しています」と言われたら、その人は「ひょっとしたら予算を大幅に超過しているというのはこの人とその周辺だけが主張している偏った説で、事実は違うのかもしれない」と考えて、質問攻めにすることになるだろう。

一方で、そこで「周知のとおり、東京五輪は当初予算を大幅に超過しています」と言われたら、その場での話は「予算を大幅に超過しているというのは事実だ」という前提で進むだろう。

英語の "as far as I know" と、 "as far as is known" との間にも、そういう違いがある。

だがこれ、文法的に何なのか、というと、ちゃちゃっと調べたくらいではわからなかった。辞書を十分に参照すれば何かわかるのかもしれないが、手持ちのものには載ってないみたいだし、こんなトピックを扱っているときに調べものにかけられるエネルギーが私にはない。図書館に行けば大きな文法辞典もあるが、これが外出に値するほど「不要不急」なのかどうかというと微妙だ。

というわけでちゃちゃっとググった結果、見つけたページについて: 

というわけで、先ほどの文の後半、 "but as far as is known, only one bullet hit him, in the head" は、「わかっている限りでは、彼に当たった銃弾は1発だけだった。頭に被弾していた」ということになる。

オサマさんとスマヤさんが撃たれたときの状況から、「頭を狙って狙撃した」かどうかはわからないが、あの状況で50発も銃弾を浴びせれば、撃たれた側には致命傷になる可能性があることは火を見るより明らかである。

キャプチャ画像のその次のパラグラフ:

The IDF lost no time in issuing an announcement stating that there had been a car-ramming attempt and that the vehicle had driven fast toward the soldiers and had endangered their lives.

《lose no time in -ing》はよく見る表現で、直訳すれば「~することにおいて、時間を一切失わない」、これをかみ砕いて解釈すれば「時間をおかずに~した」となる。イスラエル軍はすぐに、告知を出した、ということだ。

そしてその告知の内容が、 "stating" という《現在分詞》の後置修飾で説明されている。すなわち、車を突っ込ませようとしてくる事案があったのだ、問題の車は兵士たちに向かって高速で走ってきて、兵士たちの生命を危険にさらしたのだ、と。

目撃者は、そんなことは証言していない。記者が現場を確認しても、そのような痕跡は見当たらなかったのだろう(痕跡があったのなら書いているはずだ)。そもそも、路面などにその痕跡が残るものなのかというのもあるが……。

キャプチャ画像内の一番下のパラグラフで書かれているのは、ハアレツの記者たちはこの記事を出した週に陸軍広報室にいくつかの質問をした、ということだ。

いわく、今でもまだ、IDF(イスラエル軍)は、車が突っ込んできたのだという主張をしているのか?

軍警察は、銃撃に関与した兵士たちを尋問したのか? 

車が突っ込んできたと考えたのなら、なぜ兵士たちは、車の後を追いかけて突っ込んできた加害者を逮捕しようとしなかったのか? 

これらの質問に対し、軍の答えは、「事態の発生を受けて、軍警察の調査が開始されました。調査が完了した時点で、わかったことはmilitary advocate general*2室に伝えることになっています」だったという。

つまり、ハアレツの記者の疑問には軍は答えようとしていない。

記事はこのあとは締めくくりに入る。この、おそらくは気まぐれな銃撃が、マンスールさんの一家に何をしたのか、ということだ。

ビドゥの村議会長のサラム・アブ・エイドさんは、ハアレツの取材に対し、「これはオサマさんに対してだけでなく、ご夫人と5人のお子さんに対する犯罪です。兵士たちが殺したのは1人ではありません、7人です」と述べた。強い非難の言葉だ。

マンスールさんの家の庭にはオサマさんが植えた雛菊が咲き、13歳になる娘のベイラサンさんは黒い服に身を包んで、厳しい目つきをして、兄のモハメドさん(15歳)と一緒に座っている。

「ベイラサン」はアラビア語で「エルダーベリー」の意味。白い花を咲かせる植物で、没薬や香料が抽出される。家族の一人がぽつりと言う。今ではベイラサンは、分離壁の向こうに行ってしまいました。イスラエルに取られた土地にしかない植物です。

ここで私の手は止まってしまう。オサマさんは行商の八百屋さんだった。きっと植物にはとても詳しかっただろうし、植物が好きだっただろう。そして、植物は土地に根差す。土地とともに植物はある。娘にそういった植物の名前を付けたオサマさん。

記事の最後を、私はなぜか、どうしても日本語にすることができない。見つめていても日本語が出てこない。英文のまま貼り付けておく。

Ten-year-old Nisan rests her head on her mother’s lap, just as her father did in his last moments. Nisan covers her face with her cellphone, as though to distance herself from having to hear, over and over, what happened to her parents that night on which she lost her father – most likely for doing nothing wrong. 

 

あまりに理不尽にすぎないか? 

 

あるいは、このような言葉に対しても「『あまりに exccessively』って簡単に言うけど、難しいんですよ」「基準を示しなさい」と冷笑的な態度でのしかかってくる人が現れるだろうか。

 

※約11500字

 

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*1:アラビア語がおできになる高橋美香さんによると「スマイヤ」または「ソマイヤ」とお読みするようだが、本稿では一応原則通り、ローマ字読みで表記しておくことをお許しいただきたい。アラビア語は母音の扱い方が日本語とは違うし英語ともかなり違うので、一筋縄ではいかない。

*2:訳語探すのさぼらせてください……もう限界。

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