今回の実例は、前々回と前回の続きで、6月20日の「世界難民の日 World Refugee Day」に英国の新聞に出たレストランのレビュー記事から。文脈などの前置きについては、前々回のエントリをご参照のほど。
記事はこちら:
前回はかなり長い文の主要な部分を見ただけで文字数を使い切ってしまったので、今回はその続き、その長い文に含まれている副詞節を見ていこう。
記事の3パラグラフ目から。
第5文がめちゃくちゃ長い文になっているが、これの構造をスラッシュや太字で見える化すると:
Once upon a time / I would have felt like a mere observer, / but [ as the dismal anti-immigration rhetoric has intensified, / as the little Englanders have frothed at the mouth about those who have the audacity to flee war and desolation, / as if the search for better was a personal insult,] I have increasingly felt myself to have skin in the game.
で、前回はこの太字の部分を細かく読んでみた。
今回はこの中に挟み込まれた副詞節を見ていこう。これがまた、下記に太字で示すように《接続詞のas》が連続している上に、最後に《as if ~》まであるので、読んでる間にわけがわからなくなるのではないかと思う。私自身、これをどうやって解説するんだという気分はぬぐえない。
as the dismal anti-immigration rhetoric has intensified, as the little Englanders have frothed at the mouth about those who have the audacity to flee war and desolation, as if the search for better was a personal insult,
最初に改めて確認しておきたいのだが、この記事はガーディアンの日曜版であるオブザーヴァーという新聞に掲載されたものである。ここで「新聞」と書いたが、これはquality paperで、日本語では「高級紙」とも訳されるが、要は「タブロイドではない、普通の新聞」ということだ。日本の全国紙でいえば、スポーツ新聞ではなく朝日、読売、日経、毎日といった新聞をイメージしてもらいたい。そしてそういう新聞を読む人というのは、時事的なことに関心を持っているし、前提となる知識もある。
記事を書く人は、そういう読者に向けて文章を書く。
だから、その前提を共有していない私たち外国人にとっては、微妙に何のことなのかがわかりづらいこともある。
そのため、新聞記事というのはただの文章として読むには手ごわすぎる場合もあるのだが、この記事も、ここ数年、つまりBrexitを決めたレファレンダムの投票(ちょうど5年前、2016年6月23日だった)以降の英国で起きていることを前提として読まないと、ちょっとわかりにくいかもしれない。今回見る部分は特にそうだ。
まず最初のセクション:
as the dismal anti-immigration rhetoric has intensified,
asには接続詞と前置詞があるが、まずは、この "as" は、後ろに《S+V》が続いているので、接続詞と判断するところからが読解の始まりだ。
《接続詞のas》は《同時性》を表すのが基本で、ここでも主節、すなわち後続の "I have increasingly felt myself to have skin in the game." と同時にこのasの節の内容が進行している、ということになる。時制も、どちらも《現在完了》だ。
文意としては「陰鬱な反移民の言辞が激しさを増すにつれ、私はだんだんと自分も当事者であることを自覚するようになってきた」といったところになる。
「陰鬱な反移民の言辞が激しさを増」していることは、この記事を読む人々もよくわかっている。「あーあー、ああいうののことね」と読む人それぞれがイメージできる何か具体的な話があるはずだ。英国に住んでいないと、そういう感覚がないからここはちょっと読みづらいかもしれない。
さて、次のセクション:
as the little Englanders have frothed at the mouth about those who have the audacity to flee war and desolation, as if the search for better was a personal insult,
この "as" もまた、その後ろに《S+V》の構造が続いているので《接続詞》と判断できる。そしてこの節は直前の、"the dismal anti-immigration rhetoric has intensified" と同時に進行していることを述べている。
節内の主語、"the little Englanders" は、用語として知らないと歯が立たないと思われるが*1、「イングランド優越主義者」のことである。ウィキペディアの日本語版の記述が、うまい文とは言えないが、内容は悪くないので参照しておこう。
ケンブリッジのオンライン辞書では、小英国主義者を「イングランドが他のすべての国よりも優越している、と考えているイギリス人であり、イングランドが他の国と協力するのは、イングランドにとって有利な場合に限られる」と定義している。
この用語は、イギリスのナショナリストや、外国人恐怖症や過度にナショナリズム的であると認識されているイギリス人に対する蔑称として使用されてきた。 また、グローバリズム、多国間主義、国際主義の反対者たちにも適用されてきた。最近では、この用語はナショナリズムやBrexitの支持者と結びついている。
Brexit以降の英国の報道を読むときには、この "little Englander" という表現は必須語彙である。「小英国主義」という歴史的な語義とは別の意味が生じている点に注意が必要だ。
その主語に対する動詞、 "have frothed at the mouth" の部分は、文字通りには「口のところに泡を浮かべる」の意味だが、「口角泡を飛ばし」という日本語の慣用表現がしっくりくるだろう。とにかくまくしたてるようにして言いたいことを言う、というイメージをしてもらいたい。
その発言の内容が、 "about those who have the audacity to flee war and desolation" だ。《those who ~》は「~する人々」。《have the audacity to do ~》は、少々難しい表現かもしれない。直訳すれば「~するだけのaudacityを持っている」で、このaudacityが、日本語では一言では言い表せないというか、相反する2つの語義を併せ持っているように見える。例えば『ジーニアス英和辞典』(第5版)では「大胆さ」と「厚かましさ」の2つの語義が挙げられている(p. 142)。「大胆さ」はニュートラルか、どちらかというと人をほめるときに使う表現だが、「厚かましさ」は批判するときに使う表現だ。このどちらで考えるかで文意が反対になってしまうのだが、そこは、英語を英語として読むということを意識し、いちいち全部日本語にしなくても言っていることがわかるように、というか自分があてた日本語の訳語のイメージにとらわれて自分で自分を誤誘導しないようにする練習と思って接してほしい(翻訳をしたければここで止まっていてはならないのだが、読解するだけならaudacityはしっくりくる日本語にできなくてもaudacityとして理解すれば大丈夫だ)。
少し解説をすると、ここでは移民嫌いのリトル・イングランダーが、戦争や荒廃を逃れてくる人々をどう評価しているかを表すために、筆者はaudacityという語を使っているのだから、「大胆さ」よりは「厚かましさ」寄りで解釈するほうが文意に即しているだろう。つまり「図々しくも戦争や荒廃から逃げ出すという神経を持ち合わせていた人々」というような意味になる。
そのあと、"as if the search for better was a personal insult" の《as if ~》は、以外にも当ブログで扱うのは初めてのようだが、「あたかも~であるかのように」で《~》の部分には仮定法が来る、つまり現在(主節と同じ時)のことを表すには過去形、過去(主節より前の時)のことを表すには過去完了形が来る……のが正統派だが、そこはいろいろゆるかったりもするので、実際には《as if +現在形》の形もよく見る。ここでは過去形になっていて、この部分の意味は「あたかも、よりよいものを求めることが、個人的な(人格への)侮辱であるかのように」と直訳できる。
この "the search for the better" というのが、移民嫌い・難民嫌いの日本では絶望的なほどに通じないのだが、このbetterは「今よりよい」ではなく「今よりはましな」という意味である。食費が300円しかない人が400円、500円を求める、というよりも、食費がゼロの人が何か食べ物を求める、というイメージが近い。
ここまででもう4500字を超えているのだが、今回見た部分をまとめると:
as the dismal anti-immigration rhetoric has intensified, as the little Englanders have frothed at the mouth about those who have the audacity to flee war and desolation, as if the search for better was a personal insult,
「リトル・イングランダーたちが、あたかも今よりましなものを求めるのが個人的な侮辱であるかのように、戦争や荒廃から脱出する気概のある人について口角泡を飛ばして批判し、陰鬱な反移民の言辞が激しさを増すにつれ(私はだんだんと自分も当事者であることを自覚するようになってきた)」ということになる。
文字数が当ブログ既定の4000字を超過しているが、このパラグラフを最後まで読んでしまおう。筆者のレイナーがここで「自分も当事者」と言っているのは何のことかが示されているのが、このパラグラフの最後の1文だ。この文を読んだ読者は、背筋がすっと伸びるような気分を味わうだろう。
I am the great-grandchild of earlier refugees who came looking for better and gave more than they took.
「私は、より早い時代の難民たちの曾孫である」に、《関係代名詞》で「よりましな生活を求めてやってきて、自分たちが得たよりも多くを(この国に)与えた」という説明がついている。
ジェイ・レイナーは今50代半ば。19世紀から20世紀への変わり目のころだと思うが、英国に渡ってきた移民人の子孫にあたる、ということだ。そのころ、19世紀半ば以降の英国は、大陸にいられなくなった人々を多く受け入れていた。イタリアの革命家たち(そのひとりの息子が、今も英国絵画の一潮流として展覧会などで外貨を稼ぎまくっている絵画の「ラファエル前派」の創始者集団の主要メンバー、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティである)やいろいろな国にいたユダヤ人(例えばカール・マルクス)といった人々だ。そういった人々の活動や業績が、現在の英国につながっている。Brexit支持者による一連の議論は、その事実を無視して進められた(ナイジェル・ファラージなどは自身が「移民」の子孫なのだけれども……ボリス・ジョンソンにしたってそうだが)。そのことは、レイナーのような書き手の中にずっとトゲのようにささって残っていくのだろう。
※5340字
*1:この文が仮に試験に出たら、文末に語注がつけられるだろう。