Hoarding Examples (英語例文等集積所)

いわゆる「学校英語」が、「生きた英語」の中に現れている実例を、淡々とクリップするよ

「『誤訳』とは、原文の語句・構文や意味内容についてのはっきりと誤った解釈に由来するものをいう」(中原道喜)

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ここでは唐突に映ると思われるが、ある経緯から、誤訳というものについて書いておきたいと思う。誤訳とは何であり、何ではないのか、ということだ。

さて、「誤訳」とは何であるのか。見ての通り「誤った訳」だ。ではその「誤った」とはどのようなものか。

今手元にないのだが*1鴻巣友希子さんの(確か)『翻訳教室』に「誤訳というものは存在しない。あるのはいろいろな訳である」という考えが示されていたと記憶している。これは非常にポジティヴで、翻訳を学ぶ側からすれば前向きになれるし、他人の考え方にもオープンになれる考え方なのだが、この理想が適用されうるのは、英語に関する基本的な知識が既に一定レベルに達している人だけである。

「英語」で話をすると、「何か特別な能力のある人だけがやっていること」だろうと思われてしまいがちなので、日本語に置き換えよう。

例えば、小学校3年生の子に「今ね、小学生をタイショウに、アンケートをお願いしているんです」と言えば、言っていることの内容は理解されるだろうが、ではその子がこの「タイショウ」は「対象」であって「対称」でも「対照」でもないということを知っているか(理解しているか)というと、まだ知らない(理解していない)だろう。基本的な知識が既に一定レベルに達していない状態とは、こういう状態のことである。その場合は、その人にはこれから伸びる余地があるということで、それ自体がその人の能力や人格についての決定的な否定になるわけではない。

翻訳をやろうという人ならば、基本的には、高校で習うレベルの英単語や英文法は、「基礎」という位置づけで、だいたい完全に頭に入っているのが当たり前で(つまり上記の例でいえば「対象」と「対称」と「対照」が区別できるのは当たり前、という状態で)、上述した「誤訳というものは存在しない。あるのはいろいろな訳である」という考えは、それが前提になっている。

だから、"My neighbour’s cat meowed." という英文を、「隣家の飼い猫がニャーと鳴いた」とするか、「ご近所の猫ちゃんがにゃあって言ってくれたよ」とするか、「お隣のねこちゃんが元気にご挨拶していった」とするか、などのバリエーションはありえるし、文脈によっては「うちの隣には猫がいて、そいつが鳴いてうるさかったんだ」とすることもあるだろうが、「隣の犬が鳴いた」や「隣の猫が走っていった」とすれば明確な、単語レベルの誤訳だ。

"High above the city, on a tall column, stood the statue of the Happy Prince."*2という英文を、「街を上がっていったところに高い柱が立っていて、王子の像はしあわせでした」とすれば、文法解釈がめちゃくちゃな誤訳だ。

これが誤訳であると言い切れる根拠は何かと言うと、英文法である。「文法的に解釈すると、そういう文意ではない」ということである。具体的に言えば、この文の主語は "the statue of the Happy Prince" で、動詞は "stood" であり(SとVが逆になった《倒置》の構文である)、"High above the city" は「街の上方」、つまり「街を一望できるような高い位置」のことで、その次の "on a tall column" はそのような位置を可能にしている構造物について説明している個所。したがって、この文は「街を一望できる高い柱の上に、幸福な王子の像が立っていた」という意味になる。

文法構造に従って解釈した結果のアウトプットは、上述の「隣の猫」の例のように、人によっていろいろなバリエーションがありうるが、この文の《意味》は、どのように表現しようとも変えてはならない。

したがって、「街を上がっていったところに高い柱が立っていて、王子の像はしあわせでした」は誤訳で、「街を睥睨するようにそびえたつ高い円柱の上に、しあわせな王子の彫像がすえつけてありました」は誤訳ではない。

 「誤訳」というもののこのような定義は、翻訳という作業をやる人々の間では広く共有されている一般的なものである。中原道喜『誤訳の構造』(2003年、聖文新社)には次のように書かれている (p. 10)。

つまり「誤訳」とは、原文の語句・構文や意味内容についてのはっきりと誤った解釈に由来するものをいうのであって、訳語の主観的選択の適否といった次元のものではない。 

誤訳の構造

誤訳の構造

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 ※リンク先は2021年に版元を改めて復刊されたバージョン

ではここで次のツイートを見てみよう。

 

これは、米国で非常にバズったツイートである。こういう、あまりに痛々しい映像や画像で訴求してくるタイプのツイートは、正直、私は苦手なので(なぜ苦手なのかは話が長くなるが、Twitterという場でこういう感情に訴えるような視覚情報が流れてくると警戒するクセがついている。クセがつくくらいに、いろいろあった)、自分では見てもスルーするが、ひょんなことでこのテクストをじっくり見るはめになった。

そして、えらい目にあうことになったのだが、それはまた次回のお話。今日はもう書くの疲れたのでここで終わる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:というか取り出せない。積読山のどこかにある。

*2:英文出典: https://www.gutenberg.org/files/30120/30120-h/30120-h.htm 

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