作業中に詰まっている。
ある人が、大切なものを自分の手で燃やさなければならない、という事態を想像していただきたい。そのときに、 "My heart burns with it." と述べている。これをどう日本語にするか。
実際にその人のheart(心臓、もしくは心)が燃えるわけではないから、これは比喩表現だ。心理描写のためのメタファーである。そこまでは機械ではない人間なら即座に判断できるだろう(最近のAIもこのくらいの解釈は楽勝だ)。それを踏まえたうえで、直訳(というか文字通りの訳)をすれば、「それと一緒に私の心も燃える」だろう。
しかし日本語では、「心が燃える」といえば「何かについて熱い感情を抱く」とか「闘志がわいてくる」といった意味になる。大切なものを燃やさなければならないときの心情を言う表現ではない。物を燃やしながら、これから取り組まねばならない課題に向けての決意を新たにする、といった流れであればこれでいいかもしれないが、私が抱えている案件ではそうではなく、「泣きながらものを燃やし、私の心も泣いている」という話である。ただそれを筆者は「泣く」とは言わず「燃える burn」と言っている。強い。激しい。
先日、歌人の俵万智さんが、大谷翔平選手の凄腕っぷりに、ベンチ(って言うんだっけ、野球のとき)の選手たちがひたすら驚くしかなくて、手を頭の後ろに回すようにして頭を抱えるしぐさをしていたり、口をあんぐりと開けたままになったりしている状態を、日本の放送局のアナウンサーが「頭を抱える」「開いた口がふさがらない」と描写してみせるのはいかがなものか、と指摘しておられるのを読んだが(どちらもネガティヴな表現なので、素晴らしいものを見て唖然としているときに使われても違和感がある)、その問題と同じようなものである。
俵万智さん「大谷は素晴らしいんだけど、みんなの驚きを描写するアナウンサーが、頭を抱えるとか開いた口がふさがらない…といった表現をするのは…」 https://t.co/jxEB8rFnQm
— maybe_frills #EndTheSiege (@n0fr1ll5) 2025年10月18日
これはおもしろい。日本語の外にある文化圏の人々の動作を、見たままに描写すると、日本語ではおかしくなってしまう例。
英語から日本語の翻訳に関しては例えば「肩をすくめる」はそのまま訳せないし(日本語圏ではしない動作)「目をぐるりと回す」をそのまま日本語にすると「目を回す」「目が回る」の慣用表現とぶつかる、という事案がある。
— maybe_frills #EndTheSiege (@n0fr1ll5) 2025年10月18日
昔、お手本として習ったのだが、エドワード・サイデンステッカーのやり方だと、例えば英語の「肩をすくめる」を日本語にするときは、その感情を表す日本語表現に置き換える、というのが鉄則だった(サイデンステッカーの翻訳は英→日ではなく日→英の方向だが)。その方針をとるのが、ナチュラルな訳文を作るためには最善だろう。けれど、それをぴたりと一言で言いあらわせる言葉を探すのが一苦労だ。
とはいえ、大谷さんのプレイに関して「開いた口がふさがらない」は「あっけにとられた様子で」「唖然とするよりなく」などで代替できるので、アナウンサーはもう少し頑張ってほしい。「頭を抱える」は私には代替案を考えるのが難しい。こういうとき日本だと口に手を当てるんだよね。
— maybe_frills #EndTheSiege (@n0fr1ll5) 2025年10月18日
というわけで少し旅に出る。行き先は辞書。
「旅」といっても、ブラウザの検索窓に burn dictionary と打ち込むだけなのだが。
検索結果の冒頭に示されている、ウェブ上の記述を多めに抜粋したところに、アメリカン・ヘリテージ辞書の定義が出ていて、そこに "To be damaged, injured, or destroyed by fire, heat, radiation, electricity, or a caustic agent." とある。
また、ケンブリッジ辞書には "to be hurt, damaged, or destroyed by fire or extreme heat, ..." と出ている。
みんな大好きコリンズ・コウビルド辞書には、めっちゃ細分化された定義の2番目に "you destroy or damage it with fire" が出ている(自動詞ではなく他動詞の用法だけど)。
というわけで、ここで原文筆者が使っている英語のburnは、単に「燃える」「燃え上がる」というより「燃えてだめになってしまう」という意味と考えることに無理はない。
筆者が燃やしている大切なものと一緒に、筆者の心/心臓も燃えてだめになってしまっているのだ。
さて、これをどう日本語にするか。「私の心も燃える」は、上述の理由から、ここでは使えない。「燃える」という動詞に問題があるので、日本語の類義語辞典を見てみたりしたが、全然ピンとくるものがない。故山岡洋一さんのご訳業に基づいたDictJugglerさんを見てみても、ひたすら、文脈が違いますしねー、という感じである。
自分の脳の外を参照しても特にこれというものを見つけることができないのだから、あとは自分の脳との格闘である。
そうしてたどりついたのが「心臓が焼ける思いだ」と「心も燃えがらになる」だ。さあ、どうしよう……。先はまだ長い。
ちなみに今回の内容はいわば「小手先」的な話で、翻訳のベースは英文法です(日本の「学校英文法」の知識でもOK)。つまり、My heart burns with it. の burn が自動詞であって、「~を燃やす」の意味ではないということがわからない場合は、「翻訳」という作業はできません。
あと「こんなのAI翻訳で何とでもなるでしょ」と思うのは勝手ですが、それをいちいち私に言わないでください。AI翻訳は文脈を理解しない(理解しているように人間に見えているだけ)。訳例をサジェストしてくれるよう依頼する(プロンプトでそういう指示を出す)ことはできるけれど、それは人力でやった「各種辞書の参照」と何も変わらない。ただ、本当に煮詰まっているときは、AIは意外なところからぽんっとヒントを投げ込んでくれるかもしれない。それだけ。
追記:
「胸が焼ける」という表現も一瞬浮かんだんだけど、それも日本語では慣用表現とぶつかって、「天ぷらでも食べすぎました?」ってなっちゃうので秒で却下した。オーニホンゴムズカシーネー


