このエントリは、2021年1月にアップしたものの再掲である。
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今回は、英文法の実例とは違う話。といってもこの件、すでに多くの指摘がなされているし、ジャーナリストの森田浩之さんによるがっつりした検証と論考も出ているので、それらをリンクして終わりにしてしまってもよいくらいだ。
何の話かというと、IOCのバッハ会長が述べた言葉のうち "We just have to ask for patience and understanding" という定型表現(紋切型、常套句)が、英和辞典を参照したうえで「文字通りに翻訳」され、そればかりか原文で言っていないことを言うように編集されて記事見出しとして配信され、Twitterなどでその見出しが独り歩きするような形で出回って、いわゆる「炎上」の状態になった、ということである。
具体的なことは、上記の森田さんによる文章に丁寧に書かれているので、そちらをご参照されたい。
ここでは語義関連に絞って少しだけ書いておきたい。
というより、私ごときが何かを書くまでもなく、はてなのid:tmrowingさんこと松井孝志さんが的確な指摘を素早くツイートされていたので、まずはそれを拝借したい。
当ブログがときどき扱っている「英語で情報(日本語化される前の情報)を探すこと」とかかわっているが、この場合はIOCの会長の発言なので、IOCのサイトをチェックすることで、日本語化される前の情報(英語での原文)が簡単に見つかる*1。
IOCの公式サイトに英文があります。英語のpatieceは日本語の「辛抱」とは違うので要注意。「五輪開催時に最適な感染予防対策を決めるには時期尚早。決まるまで皆に冷静に受け入れてもらわないと。」という文脈なので、「騒がず静かに待て」の感じ。「上から目線」は感じる。https://t.co/qBQNHZw3qA https://t.co/Vc2X4ytuvB
— Takashi Matsui (@tmrowing) 2021年1月28日
patienceがでてくるのはこの辺り。https://t.co/qBQNHZw3qA pic.twitter.com/lD9INLW0Ie
— Takashi Matsui (@tmrowing) 2021年1月28日
高校生相手の授業でも
— Takashi Matsui (@tmrowing) 2021年1月28日
patience / patientの肝は「待つ」ことですよ
と指摘はしますが、多勢に無勢なのか、浸透はしませんね。
ケンブリッジの定義でも、Activatorでの上位語も、キーワードはwaitですからね。
辛抱は日国(物書堂版)から。 pic.twitter.com/L6wZb6a71A
もともとのツイートにタイポがありました。
— Takashi Matsui (@tmrowing) 2021年1月28日
大変申し訳ございません。
patiece ではなく、patienceが正しい綴り字です。
重ねてお詫びします。
英語学習者としての自分の体験を振り返ると、英語圏で日常話されている英語に接して、英英辞典など参照しなくても英和辞典だけで《意味》がわかっていると思っていた基本語が、日常生活の中で使われているときにはその《意味》とは違っているんじゃないか、という衝撃を覚えたことが何度かある。例えば "Are you satisfied?" が「満足していますか」ではなく「納得しましたか」だったり、"Are you happy?" が「幸せですか」ではなく「疑問点はないですね」だったり、"If interested, call 000-000-0000" が「興味があれば」というより「買う気があれば」だったり*2。patience/patientもそういう語のひとつである。
(言うまでもなく、patientは形容詞、patienceは名詞で、両者は派生語の関係にある。)
"We have to ask for patience and understanding." は定型文(決まり文句)で、相手が求めているものをすぐには提供できないときに「申し訳ありませんが」というニュアンスで使う。日本語の定型表現では、下記で@junkTokyoさんがおっしゃっている通り「(ご迷惑をおかけしますが)ご容赦、ご理解のほどよろしくお願いします」、また、本稿冒頭でリンクした森田さんの記事にある通り「ご理解ご協力のほど(よろしくお願いします)」に相当する。
バッハの肩を持つ気はさらさらないけど、この訳は恣意的すぎるのでは。原文の We just have to ask for patience and understandingは「ご容赦、ご理解の程宜しくお願いします」という定型文。コロナ対策を専門家と相談中なのでしばしお待ちを、程度の意味https://t.co/iYS94HobG2
— junkTokyo (@junktokyo) 2021年1月28日
ご容赦は紛らわしかったかな。このpatienceは「待たせてごめん」って時の常套句です。 Thank you for your patience (and understanding/cooperation)は遅刻や締め切り遅れ連絡の頻出フレーズ
— junkTokyo (@junktokyo) 2021年1月28日
個人的な体験では、patienceと派生語関係にあるpatientを使った表現の "Be patient!" で「少し待って」「そう急かさないで」みたいな感じで日常生活で使われているのに接して、上述したsatisfiedやhappyと同じような衝撃を受けた記憶がある(ただしこれはかなり強い命令口調だから、使うときは慎重になったほうがよい。私は急いでいたときに駅窓口で「早く早く」ってなったときに駅員さんから「全くこの子はしょうがないなあ」という感じで言われた。日本人は子供に見えるってのは本当で、子供扱いされたんだよね)。滞在していた家の大食らいでよくしゃべる猫が「ごはんごはん」と騒ぐのをいさめるように、ごはんの準備をする飼い主が "Be patient, please!" と言うのも聞いたことがある(「はいはい、今あげるから、待っててちょうだい」の意味)。
犬のしつけについても、patient/patienceという単語は使う(こういうときはうちの犬には「慌てないの、落ち着いて」と言って聞かせてたかな……)。
Training your dog to be patient can be as simple as training your dog to wait. There will be different scenarios when you do need your dog to be patient, whether it's opening the door for him to go outside without ruining the screen, the curtains, or your pants or waiting for food without jumping on you or the counter or stealing food from your hand before you're ready to give it to him. Teach your dog to be patient with the things he's most excited about.
あるいは逆の方向性で、犬をしつけようとしてもなかなか思い通りにはいかないので、飼い主がpatientになる必要がある、という記述もある。
Having a pet is a wonderful experience, but it can also lead to a lot of frustration. Getting your dog to do what you want, changing negative behaviors, or training them can cause you to get frustrated or angry. However, being patient is key when having a dog.
こういうことを日本語で言い表す語として「辛抱(する)」は別に違和感はないだろう。でも、バッハ会長のあの発言にある "ask for patience" を「辛抱を求める」とするのは、はっきり言えば、《誤訳》の範疇に入ることだ(修正しないと元の意味が読者に伝わらないというレベルだから《誤訳》である)。バッハ会長の発言が英語の定型表現である上に、patienceと「辛抱」は完全には一致しないのだ(patienceは「ある程度待てば解決される」ことについて使う。「辛抱」は「じっと耐えて我慢する」もので、「いつまで待つ」ということは必ずしも関係ない) 。
英語は日本語とは別の言語なので、こういうことがある。だから、単に「英和辞典に掲載されている語義を覚えれば、英語が使えるようになる」わけではない。もちろん翻訳だって、英和辞典に掲載されている語義だけでは十分にはできない。上に埋め込んだツイートで松井さんが参照しておられるように、英英辞典をチェックすることは必須である。
ましてや、受験用の単語集とにらめっこして「暗記」したって、その単語は使えるようにはならない(とはいえ、『ターゲット1800』に掲載されているような単語は知らなければ話にならないのだが)。本来、受験用の単語集は、長文の中で覚えた単語を忘れていないかどうか、品詞などで見落としがないかどうかをチェックするために活用すべきもので、それとにらめっこして暗記に使うものではない(その点、歴史の年号や化学の元素記号の暗記とは異なる)。
※4200字
サムネ:
関連書籍:
鳥飼さんのこの本については何度か言及してきたが、2001年10月に当時の自サイトに書いた文をご参照いただきたい。実に普遍的な内容を含む、中身の濃い1冊なので、多くの方に読んでいただきたい。たぶん、お住いの自治体の公共図書館にも蔵書があるはず。