Hoarding Examples (英語例文等集積所)

いわゆる「学校英語」が、「生きた英語」の中に現れている実例を、淡々とクリップするよ

五輪開幕も迫るなか、イスラエルは爆撃してパレスチナ人アスリートを殺し、私は翻訳の調べものに四苦八苦する(ChatGPTは翻訳者の実務に使えるか)

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2023年10月7日以降、初期段階で世界中のジェノサイド研究者らが「教科書通りのジェノサイドである」と位置づけ、標的にされる危険をおかしている現地のジャーナリストや一般市民/市民ジャーナリストによってTwitter/XやInstagramなどでほぼ生中継されながらも、「国際メディア」と呼ばれる大手メディアからは「自社の記者が入れないから伝えられない」的に無視され*1、「国際社会」と呼ばれるものもろくに動こうとせず、したがって、リアルタイムで世界中に現場から事細かにひどい状況が伝えられているにもかかわらず、誰も止めようとしないという異常な状態で続けられてきたガザのジェノサイド (Gaza Genocide, the Genocide in Gaza) は、今月7日、うちら東京都民が都知事選で投票をした日*2に、事態の開始から9か月を迎えた。

状況は、悪化する一方である。そして、大手メディアは相変わらず、事態をろくに取り上げようとしていない。特に最大の軍事的支援国・米国では、大統領の記者会見で、パレスチナの都市と民間人に対して用いられる爆弾を送ることについて、誰も質問しないという状況であるそうだ。この事実が物語っている現実について、1秒でも考えてみてほしい。

私の見るTwitter/Xの画面では、大手メディアが取り上げようとしない大きなニュースが日々、英文で280字以内でフィードされてきたり、分析や解説が長文で投稿されてきていて、そして、「どうしてこれを大手は取り上げないのか」という怒りと絶望とフラストレーションの声が流れてきて、その合間合間にガザ地区現地から「お願い、スルーしないでください」とする募金要請や、「アカウントが制限されているので、Twitter/Xのアルゴリズムに働きかけるため、リプライをつけてください」という要請が入る。5月から6月にかけて盛んだった欧米の大学からの抗議行動に関するフィードは、大学が夏休みに入ったこともあって、今は激減している。その分、ガザからの直接の情報が多く表示されているように思う。同時に、大手でない(独立系の)報道機関などや、イスラエルの報道機関の重要な報道も相次いでいる。一例が、かの『ランセット』誌(英国の、権威ある医学誌)の推定死者数に関する記事だ(「学術的に普通に考えて、関連死を含め、犠牲者数は186,000人になる」という内容)。ジェレミー・スケイヒルが、自身が立ち上げたThe Interceptを離れて新たにスタートしたばかりのDropSiteNewsでも、いきなりなんかすごいのがきてる。イスラエルの新聞ハアレツは10月7日の「ハンニバル指令」のことを報じている(つまり、10月7日に攻撃で殺された人々のうち少なくない人々が、イスラエル軍に殺されたということが、事実として明らかになっている*3。)。こういうのが、日々、現地からのめちゃくちゃな状況を伝える文章や映像と一緒になって流れてくる。もういっぱいいっぱいだ。

ガザ情勢を(英語で)追っている人たちは、誰しも同じような状況だろう。

もう9か月にもなり、「まずは知ることから」と言っていられる局面はとっくに通り過ぎていて、そして毎日悲惨な写真や映像が次々と流れてくる。その中でわかりやすいもの、手に取って自分のペースで検討できるもの、手に負えるという感覚をもたらすものは、個人からの寄付要請や「買って応援」系の情報だが、「そもそも情報量が多すぎて、何をどうしたらいいのかわからない」という状態になっている人は大勢いるだろう。とりあえず確実に「何かができる」のは、eSIMの寄付だ。 #ConnectingGaza (ガザをつなぐ)というハッシュタグで情報がやり取りされている。eSIMの寄付のやり方は、こちらでisaokodesuさんが丁寧に解説してくださっている。

isaokodesu.hatenablog.com

さて、ここまでは前置き。

今日、先ほど、ガザ地区南部ハンユニスで、2021年の国際大会にパレスチナ代表として出場した陸上選手が、イスラエルによって自宅を爆撃されて殺された、という報告を日本語化した。たいていスルーされるか、リツイート/リポストされても数件というのがデフォの拙の翻訳ハッシュタグ「#ガザ市民のための声翻訳」の投稿では珍しく、280件を超えてリツイートされている。やはりスポーツについては関心が高いのだろう。ちなみに私は、今年3月の新宿での集会で、柔道のイスラエル代表の集会乱入というインシデントを目撃していて、事後に彼らの流したデマ(うちらデモ隊が柔道代表に襲い掛かって柔道着をもぎ取って逃げた*4、的な)に対抗して実際にあったことを英語で書いたことでロンドンのスポーツ・ジャーナリストと知り合ったのだが、今回、ハンユニスでの陸上選手の爆殺は、彼女のツイートを通して知った。スポーツはこういうふうにも人をつないでいる。

スポーツ選手がイスラエル空爆で殺されることは、医者や学者、ジャーナリストが同様に殺されるのと同じように常態化しており、スポーツのインフラも破壊されていて、英語版ウィキペディア"Palestinian sports during the 2023–2024 Israeli invasion of Gaza" としてまとめられている。サッカー選手が殺されればUEFA*5FIFAへの抗議の声が上がらなくはないが、「国際メディア」はまず取り上げようともしない。そしてサッカーのEuroも、もうすぐパリで開催される五輪も、何事もなく進行する。

 

目次

パレスチナ代表の陸上選手が、イスラエル空爆によって殺された

今回、これをブログに書いているのは、アスリートが殺されていることそのものを書き留めておきたいからではない。そうではなく、この英和対訳を作成する(気分的に、「翻訳」というより「対訳作成」に近いが、その二者のどこがどう違うのかはたぶん、その筋の翻訳者でもない限り、誰にとってもどうでもいいんじゃないかと思う)にあたっての調べものが、ちょっとハンパなかったから、それを記録しておきたいと思ったのだ。

調べもの1: sporting bodies 

連続投稿したものの4つ目で、原文の "If sporting bodies don't ban Israel" を、私は最終的に「スポーツ大会を組織する機関がイスラエルを出場禁止にしなければ」と処理した。「最終的に」というのは、ここまでのプロセスがめんどくさかったということである。

このsporting bodiesというのは頻出で、要はsport governing bodiesのこと、具体的にはIOCとかFIFAとかUEFAとか、あるいはFAやIFA, JFAといったものを指す。スポーツ競技のレギュレーションを決めたり、違反行為があった場合に当事者に罰則を適用したりする機関である。ここでは原文は、具体的にIOCとかUEFAとかEAA (European Athletic Association) とかいった団体を示す代わりに、上位概念のsporting bodiesを用いている。

つまり、読むだけなら「IOCUEFAEAAのことを言ってるんだな」と理解すればよいのだが、訳すとなるとそうはいかない。sportingは「スポーツ(の)」でよいのだろうが、bodiesはこういう場合の定訳である「機関」でいいのか? とすれば、「スポーツ機関」という日本語は、こういう場合に使われているのか? あるいは「競技団体」か? 

以前も当ブログで書いたが、こういうときに訳語を確定させる、というより適する訳語を探してくることが、「翻訳」という作業の重要な部分を占める。

これが簡単に、というかスムーズにできれば苦労はしないのだが、そうとばかりは限らない。

ちなみに、手元の辞書にはこれは掲載されていない。私が持っていない辞書には載っているのかもしれない。

まずはウィキペディアを使ってみる

今回の "sporting bodies" は、訳語を見つけようとウェブ検索すると、英語版ウィキペディアの Sports governing body に案内される。この項目の日本語版のページがあれば、sports governing bodyの日本語対訳が見つかるはずだ……と見てみると、確かに日本語ページはあるのだが: 

国内競技連盟」ってなってて、対訳探しにおいてはまったく使い物にならない。ウィキペディアあるあるである。

次にChatGPT-4を使ってみる

ここでだるくなったので、ChatGPTに投げてみることにした。私は有料登録(課金)していないのだが(なぜなら実用にならないので)、現在、お試しでChatGPT-4が使えるので、それを使ってみることにした。「3.5よりずっと賢いから実用になる」と評判のあれである。うちらにとって「実用になる」とは、翻訳のこういう細かい調べものを代行してくれるレベルだが、果たして……。

こっちがわかりきっていることについてドヤ顔で説教してくる

私: What is the Japanese term for "sporting bodies"?

ChatGPT: The Japanese term for "sporting bodies" is "スポーツ団体" (suportsu dantai).

スポーツ (suportsu) means "sports."
団体 (dantai) means "group" or "organization."
So, "スポーツ団体" (suportsu dantai) refers to organizations or bodies related to sports.

こやつめははは

根拠も示さずに断言してくる(通常運転)

私: Do you call the IOC a スポーツ団体?
ChatGPT: Yes, the International Olympic Committee (IOC) can be referred to as a スポーツ団体 (suportsu dantai) in Japanese. The term スポーツ団体 encompasses various types of sports organizations, including international governing bodies like the IOC.

自信満々だが、どうせはっきりした(完全一致の)根拠なんかないだろう。

「根拠を出せ」と言われると根拠と主張するものを示しはする。だがそれを見ているかどうかは別だ

私: Could you provide a source where you call the IOC a スポーツ団体?
ChatGPT: Searched 6 sites

IOC スポーツ団体”
bing.com*6

Wikipedia国際オリンピック委員会 - Wikipedia
ja.wikipedia.org

Support Olympics — 国際オリンピック委員会 (IOC) とは何ですか? またその使命とは? – Olympics
support.olympics.com

政治ドットコム — IOC国際オリンピック委員会)とは?具体的な仕事内容を簡単解説|政治ドットコム
say-g.com

Wikipedia日本オリンピック委員会 - Wikipedia*7
ja.wikipedia.org

スポーツが環境問題にもたらす影響とは 具体例や環境への取り組みを解説 | ELEMINIST(エレミニスト)
eleminist.com
Yes, the International Olympic Committee (IOC) is referred to as a スポーツ団体 (sports organization) in Japanese. The term "スポーツ団体" encompasses organizations involved in the administration and regulation of sports, which includes the IOC. This term is used in various Japanese sources to describe the IOC's role and functions.

For example, according to the Japanese Wikipedia page on the IOC, it is described as a "非政府のスポーツ組織" (non-governmental sports organization) based in Lausanne, Switzerland​ (Wikipedia)​. Additionally, other Japanese sources, such as the Olympics support page and an article on political.com, use similar terminology when discussing the IOC's mission and activities​ (Support Olympics)​​ (政治ドットコム)​.

だから、「団体」と「組織」は違うんだって。この時点で「精度」はぐだぐだである。

もっともらしくソースまで示しているが、ChatGPTは「意味を取る」ということをしない。そういう読み方はせず、単語を適当につなげてそれらしい作文を作るだけである。例えば6件の参照先の2番目に示されているウィキペディア日本語版のIOCについてののページだが、下図のように「国際オリンピック委員会……は……スポーツ組織である」とある。「団体」は、その「組織」たるIOCが統括するbodiesに与えられる日本語である。

ChatGPTはひとまとまりの文章の単語を適当に拾って脈絡なく結びつけることを「読む」と称しているだけ。意味は取っていない

さらにシメる。

私: スポーツ組織 is not スポーツ団体. 
ChatGPT: You are correct that "スポーツ団体" and "スポーツ組織" are distinct terms, though they are closely related. While "スポーツ組織" (supōtsu soshiki) translates directly to "sports organization," the term "スポーツ団体" (supōtsu dantai) typically refers to a sports association or body.

Upon further research, it appears that "スポーツ団体" is indeed used to refer to bodies like the IOC. Here are examples and sources that illustrate this usage:

1. Olympics Support Article: This article explicitly refers to the IOC as "スポーツ団体" while explaining its role and responsibilities in organizing the Olympics and promoting the Olympic movement​ (Support Olympics)​.

2. Eleminist Article: This article discusses various sports organizations' efforts, including the IOC, in addressing environmental issues, referring to them as "スポーツ団体"​ (ELEMINIST)​.

These sources confirm that the term "スポーツ団体" is appropriate for referring to organizations like the IOC in Japanese.

ChatGPT-4が「この記事には、IOCは『スポーツ団体』であると、はっきり書いてありますよ?」と喧嘩腰で示しているSupport Olympicsの記事を「団体」で検索すると、下図の通り、ゼロ件である。

また、もう1件示しているELEMINISTというサイトの記事だが、これはChatGPT-4は「この記事では、IOCを含む様々なスポーツ組織(organizaiton)の環境問題に対する取り組をを取り上げており、そこでそれらのことを『スポーツ団体』と呼んでいます」と言っているが、こっちは「IOCは『団体』呼ばわりされんの?」と聞いているのに、どっから「それら them」を持ち出してくるのか、みたいなことになっていて、非常に疲れる。話をろくに聞いていない中学生でも、もう少し的確な反応を返すだろう。

ちなみに、この記事内で「団体」のヒット件数は3件で、「フードバンクや地域の慈善団体と連携して、残余食品の再配分や社会貢献活動に取り組むことも効果的だ」、「スポーツ団体が実施している環境問題への取り組み」(小見出し)、「環境課題の解決に向けた取り組みをおこなうスポーツ団体やチームが増えている」*8で、いずれも「IOCは『団体』と呼ばれるかどうか」はかすってもいない記述である。

IOC」の検索結果は1件で、

このようなオリンピックの環境問題を受け、IOC国際オリンピック委員会)は1990年に「スポーツと文化と環境」をオリンピックの3本柱として提唱し、環境保護を重視する方針を打ち出している。

という記述のみである。

これを根拠に「IOCのことを『団体』と呼んでいる」と言い切るChatGPTは、国語の成績はせいぜい2だろう。

このあともしばらく続けてみたが、ずっとこの調子で、「信頼性が高そうなサイトを見ると、同じページ内に『IOC』という語と『団体』という語があるので、『IOC』は『団体』と呼ばれている」と言い張っている。

結論: ChatGPTでは私のやりたいような調べものはできそうにない

というわけで、こんなもので調べ物をしたところで、何ら得るものはなく、ただ時間の無駄になる(遊びとしては楽しいのかもしれない)と判断し、原文の "If sporting bodies don't ban Israel" は、私は最終的に「スポーツ大会を組織する機関イスラエルを出場禁止にしなければ」と、ちょっともっさりした形で処理した*9。筆者がここで言っているのはIOCだけではない。今回の文面で「IOC」と特定せずに一般名詞を使っていることからそう言えるだけでなく、原文を書いたレイラ・ハメドさんは専門はサッカーで、これまで強く、FIFAに対しイスラエルへの制裁を求めてきた人であるということを私は知っているのだ。

ChatGPTは翻訳者の実務に使えるか

翻訳者にとって、翻訳の作業は別に支援などしてもらわなくてもいい。英語→日本語の翻訳者は、基本的に、英語を日本語にするのは機械の力など借りなくてもできる。平坦な道で自転車の電動アシストが必要でないのと同じだ。翻訳した後、ないし翻訳と同時進行のプロセスである入力は面倒なので、入力は支援してもらえたらありがたいし、表記ゆれのチェックを含めて訳文の校正ツールなども便利だろう*10。書き上げた文章の中で「バグダード」と「バグダッド」が混在していたときに「混在してますが大丈夫ですか?」と問いかけてくれたら便利だし(ただし勝手に直されたら迷惑だ)、「プーチン」がたくさん出てくる文書で、1カ所だけ「プッチン」になってるような間違いは、「プ」と見ただけで勝手に「プーチン」と読んでしまうことがある人間がチェックするより機械がチェックしたほうが確実に発見できる。

しかし、翻訳作業、英語を日本語にするということ自体は、自力でさほどの苦労なくできる。むしろ、その作業は楽しいので、機械に投げるのでなく自分でやりたい。

他方、支援してもらいたい作業は、わりと無味乾燥な(つまらない)調べものである。私がよく例示するのは軍人の階級 (military ranks) で、同じcolonelでも陸軍か海軍か空軍か海兵隊かといったことによって充てるべき日本語が違っていたりすることがある。また、Generalが「将軍」なのか「大将」なのかといったことは(オタクや研究者でもない限りは)単にダルいので、機械でやってもらいたい。今回の「IOCなどについてsporting bodyと言うとき、そのbodyはどう訳すべきか」は、こういう類の調べものである。

だが、これまで見てきたとおり、ChatGPTではまるで役に立たない。むしろ、ChatGPTの言ってることが正しいのかどうかを確認するという仕事を、増やされている。効率化の逆である。こんなアシスタントは要らん。

もちろん、今「AI(人工知能)」と呼ばれているものは「知能」ではなく「LLM(大規模言語モデル)」に過ぎないのだから、元より、こういった調べものを任せられる性質では到底ないのだろう。それができるかのように扱うことは、間違っている。美容院に行っても家の外壁塗装はできないのだ。

調べもの2: the young Palestinian runner Wasem Ayman Abu Deeb

今回のスレッドでもうひとつ、調べものが必要になったのは、レイラ・ハメドさんの連投の主題である "the young Palestinian runner Wasem Ayman Abu Deeb" である。

こちらについてはTwitter/Xに「翻訳メモ」として連投したのだが、その内容をここにも書いておこう。こちらはChatGPTなど使わず、ベーシックな調べもののやり方で調べた。

人名はこの場合、シンプルにいける

まず、Wasem Ayman Abu Deebさんについて。人名のカタカナ表記はそのままローマ字読みにした。これは難しくない。正確さを期すなら、eで表記されている母音は「イ」か「エ」かを確認すべきだが*11、カナ表記は「ワセム・アイマン・アブ・ディーブ」だろう。Abuを「アブ」とするか「アブー」とするかという問題もあるが、それは一般的に*12、その文書内で統一が取れていて誤読されるおそれがなければOKということになっているはずで、Twitter/Xでは文字数が少ない方が望ましいから私は基本的にオンビキなしにしている。

ちなみに、人名でむしろ難しいのは、一見シンプルに見える英語圏の人名だ。例えばStanley, Bradleyなど-leyの語尾は「レー(レイ)」なのか「リー」なのか、といったことがある(日本語の「〇沢」を「〇さわ」と読むか「〇ざわ」と読むかと同様、大体の傾向はあれども実際には人それぞれで、規則性はない)。有名なところで、米国の「レーガン」大統領は、大統領選挙からしばらくの間は日本語の新聞では「リーガン」と称されていた。俳優の「ウォーレン・ベイティ」は「ビーティー」だったこともある。ハリー王子の配偶者である「メーガン」さんが「ミーガン」か「メーガン」かで日本語圏の翻訳者は悩まされたことがあったし、さらに言えば音声としてはオンビキなしの「メガン」が近いのだが、「メガン」と表記したら朱字が入るだろう。

runner が難しい……《意味》がわかることと、それに《適した日本語》を与えられることとは別

難しいのはそのあとで、「彼は "young Palestinian runner" である」という情報だ。特に "runner". 「こんな基本語で?」と驚かれるかもしれない。

上代表に選出されるような "runner" は、日本語では「陸上男子100メートルの〇〇選手」といったように、種目を明示する必要が(事実上)ある。単に「走者」とはしないし、現在の用語法では「ランナー」は別の意味(「市民ランナー」の文脈)で解釈されるだろう。

というわけで、アブ・ディーブさんの出場種目を調べないと、"young Palestinian runner" が翻訳できない(まともな日本語にすることができない)。

つまり《意味》がどれだけ正確に早くわかったところで、それだけでは翻訳などできない。ときどき「プロの翻訳者なら瞬時にそれができる」と豪語する人もいるようだが、それは分野・トピックが限定されていて、翻訳者にとって既知である場合の話。ここで「この選手の出場種目は何か」といったような未知の分野・トピックのことを瞬時に正確な日本語にできる英日(の言語ペアに限らないかもしれないが)翻訳者はいないと思う。

余談: こういうときに「マイナーなアスリートのことを調べるのは大変ですね」などとは言わないようにした方がよい

なお、こういうケースについて、日本語圏では「マイナーな陸上選手の出場種目を調べる」といった表現をすることも多いと思うが、この「マイナーな」は和製英語的な用法でまず通じない。通じないだけでなく、minorは音楽用語(「短調」)でもなければ、何かを比べて上下の関係や優劣をつけるときに使う言葉なので、こちらが意図しない誤解を生じさせることもある。lesser-knownという言い方を覚えておこう。

そして、いざというときに反射的に「minor マイナー」という言葉を口にしてしまわないように、「マイナーな」という日本語は、「有名でない」「あまり知られていない」など別な語・表現に置き換えて表現するように心がけておいたほうがよいだろう。

出場大会の記録から、特定の選手の出場科目を調べる

では、どうやって彼の出場種目を調べるか。

まずはWasem Ayman Abu Deebでシンプルにネット検索をする。ところがそれをやっても、Google検索ではレイラ・ハメドさんの投稿している文面が出てくるだけで埒があかない。他の検索エンジンでもまったく成果なし。

そこで、彼が出場したことのある大会を手掛かりにして探すことになる。一番新しいのが2021年のチュニジア開催のアラブ陸上選手権なのでそこからいく。

2021年アラブ陸上は英語版ウィキペディアにページがあって、3位までに入っている選手なら、ここで出場種目が確認できる。

だが、アブ・ディーブさんはおろか、パレスチナ代表はひとりも、ここには記載がない。

なのでまだ調べ物を続けなければならない。

ウィキペディアウィキペディア本文だけでなく、最下部に注目。そこに使えるものが埋まっている

上記ウィキペディアのページの最下部、"References" のところに、Results on Worldathletics (世界陸上のサイトに掲載されている大会結果)がリンクされているので、それをチェック。「男子100メートル」「男子400メートル」など種目別に出場選手の順位が一覧になっている。

ここまで読んできて、ここで「よかった、先が見えてきましたね!」と思った方もおられると思うが、甘い。

このページには私が探している人の名前も、パレスチナ代表の記載もない。だからさらに先に分け入らなければならない。ページトップのドロップダウンメニューから、「男子100メートル」など種目別に見ていくことになる。

ドロップダウンメニューから、「男子100メートル」「200メートル」「400メートル」「800メートル」……と順にしらみつぶしに見ていく。そしてようやく「1500メートル」でパレスチナ代表の「ワセム」選手が8位にいるのが見つかる。だがAbu DeebさんではなくAbuthebさんだ。

Abu DeebかAbuthebかというのは、字面を見る限り表記ゆれの可能性が非常に高い*13。Abuを取り除くと、Deebかthebかで、アラビア語では英語でいうDの音とTHの音はどうたら、というのがあったはずだ。

というわけで、今回イスラエルの爆撃で殺されたワセム選手は、2021年チュニジアでのアラブ陸上で1500メートルで8位になったワセム選手である、ということでほぼ確定なのだが、アラビア語の綴りを確認しないかぎり、完全に確定はできない。まだ別の人がいるかもしれない。

というわけで引き続き5000メートル、10000メートル、ハードル競技(110メートル、400メートル)と確認するが、該当しそうな名前はない。

調べものは行き詰まった。ここでどうするか

これ以上は探すべき場所も思い当たらないし(あるとすればアラビア語圏で、それは私には手が届かないところにある)、仕事でもないのにそこまでこだわって時間をかけて翻訳にあたることもできないのだから、ここで調べ物は打ち切ることにしようと考えるが、日本語での記述の流儀に従って「陸上男子1500メートルのワセム・アイマン・アブ・ディーブ選手」と言い切れるかどうかというと、それはどうなの、と。

なので "young Palestinian runner Wasem Ayman Abu Deeb, member of the Palestinian National Athletics team" は、「陸上競技パレスチナ代表に選出されているワセム・アイマン・アブ・ディーブ選手」とした。推敲する機会があれば「陸上のパレスチナ代表、ワセム・アイマン・アブ・ディーブ選手」くらいまで削っていただろう。

走り幅跳び砲丸投げの選手だったら、こんなふうなことにはならなかったかもしれない。「走り幅跳びパレスチナ陸上競技代表に選出された〇〇選手」とでも書けばよい。走る競技だけが、日本語では「何メートル」なのかを書かなければまともな記述にはならないという特殊な競技なのだ。

訳出しないという選択

というわけで結果的に、ここでは、"young Palestinian runner" は、ちゃんと読んだし、時間かけて調べ物もしたけど、目に見える言葉としては一言も訳出しないことになった。その選択には、Twitter/Xの投稿という文脈も関係している。

"young" は、同じツイートについている写真を見ればわかる情報だし、スレッド内の次の投稿の出場大会の年度を見てもわかるので、文字数の必要上、削れるものとして扱った。

上述の手間暇と労力をかけて調べた "runner" も訳出しない。日本語で断言できる根拠がないからゴミ箱行きである。断定が必要な場合は、仕事なら、この先も時間かけて断定できるところまでやるけれど(アラビア語話者を探してきてアラビア語で調べてもらう、など)、ここではそこまでのことはしない。そもそも、これは、日本語では無理に書かなくても必要な情報は伝わることだ。

"young Palestinian runner" の "Palestinian" は、「パレスチナ」の存在がイスラエル国シオニストによって否定されてきて、「パレスチナ人」というアイデンティティも認められていないという歴史的経緯を踏まえれば明示すべきことだが、日本語の流儀として、後続の「パレスチナ代表」と被るので割愛。「陸上のパレスチナ代表に選出されているパレスチナ人選手」という日本語は変に響くはずだ。パレスチナに関係のないこと、一般的な日本語の勝手でこういうふうにして原文から削ることで、私の心も削られているが、そんなのにいちいち削られてたらやっていけない。

この処理は、パレスチナが「国」だったら簡単になる。「(国)代表に選出されているパレスチナ人陸上選手が空爆で殺された」と言える。「代表入りを決めたフランス人選手がチャリティイベントに登場」みたいな書き方はよくあるわけだし。

しかしパレスチナは「国」ではない。

日本語圏では、仮に「パレスチナ国」は承認されていなくても、「パレスチナ」の存在は否定されていないから、「代表メンバーとして活躍したパレスチナ人陸上選手がイスラエルによる空爆で殺された」などとしても充分に通じるはずだ。むしろこういう「こなれた」訳文にしたい。

でもそうすると元の文を翻訳したことにはならなくなるかもしれない。存在を否定される「パレスチナ(人)」を強調するテクスト……そういうエクリチュール

私が日々、ハッシュタグ「#ガザ市民の声翻訳」(ガザ内部の人の投稿。脱出した人やディアスポラも含む)、「#ガザ市民のための声翻訳」(ガザの外からの投稿。在英米ユダヤ人や国連職員など)で扱っているのは、そういうテクストである。

 

ほんと、なんでこんなことが9か月も続いているのだろう。

 

 

 

 

*1:その前哨戦であるかのようにして、ここ10年の間にガザ地区でどのくらい国際メディアのオフィスなどが破壊されてきたことかを振り返っておくことも必要だろうが、たぶん、誰もそこまで手が回っていないのではないかと思う。また、ジェノサイド開始から9か月となって、イスラエルの外国人記者団体が「イスラエル国政府が、外国人記者を、ガザ地区に入れさせないことは問題である」との非難声明のようなものを出していることも特記しておくべきだろうか。

*2:もちろん、盧溝橋事件の日でもある。1937年、中国の北京郊外で何者かが日本軍に対して発砲、日本はこの機をとらえ、「自衛権」を掲げ、宣戦布告をせずに大々的な軍事行動に出た。日中戦争の始まりである。

*3:実際、ハマスの攻撃力ではなしえないような攻撃のあとがあったんだけど、英語圏の、Twitterでだけ声の大きな(増幅装置として作用する)素人探偵というか自称OSINTの人たちは無視してたよね。ハスバラだろう。

*4:筋肉の塊でしかない格闘技の選手が、しっかり着こんでいる衣類を、スマホやプラカードを持つのに忙しい一般人が奪い取れるわけがない。なのに、イスラエル柔道代表の流したデマを受けて「これが事実だったらよくないことだ」と拡散する日本人がいた。しかも大手新聞の在米記者とかがそうしてたの。新聞記者なら何よりもまず先に事実を確認しろっての。

*5:イスラエルが所属しているのはUEFAである。パレスチナ代表はアジアなのに、イスラエル代表はヨーロッパって、そもそもおかしいでしょ。サッカー界がずっと無視してきたイスラエルの特別扱い。

*6:検索エンジンbing.comの検索結果一覧のページを参照しました」とドヤられても困る。誰かが「IOC スポーツ団体」という検索をしたことが何のソースになるというのだろう。

*7:IOCについてのソースを示せと言われてJOCを示す。人間だったらお役御免でしょう。

*8:このあと、例示されているのは、プロ野球の球団2つと、Jリーグである。IOCは出てこない。

*9:助詞を省いて「スポーツ大会組織機関」としてもよかったかもしれない。

*10:辞書引きは代わりにやってくれたら楽だが、人間がその都度文脈を参照して必要を感じたときに行うような辞書引きの作業が、機械にできるとは思わない。

*11:例えば仕事の取引先にWasemさんがいらしたら、「ワシム」なのか「ワセム」なのかは確認したほうがよいだろう。ご本人が「どちらでもいい」というのなら、ご本人はどちらが望ましいとお考えかを確認するのがよいかもしれない。

*12:アラビア語の音をカタカナでなるべく正確に表す」ことを旨とする場合は、その限りではない。

*13:アラビア語からアルファベットにする場合には同じ語でも違う表記になることが非常によくある。有名なところでは、リビアの最高指導者だったカダフィには112通りの表記があったとかなかったとか。

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