このエントリは、2019年6月にアップしたものの再掲である。機械翻訳に頼ってようやく英文を読んでいるような人はここの理解がとても雑なので、情報を正しく受け取れないことが多い、という項目である。
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高校で「仮定法」というものを習うと、たいていの人は少なからず「わけわかんない」という印象を抱く。「法 (mood)」というものは日本語にはないし、そもそもこれまでだって「もしも~なら」というif節は習ってきた。「もしも明日雨が降ったら、遠足は中止になる」というようなときにif節を使うのだ(それも、「未来のことは現在形で表す」というややこしいルールもセットで覚えさせられている)。その「もしも明日雨が降ったら」の「もしも~なら」と、「もしも私が鳥ならば、空を自由に飛べるのに」の「もしも~なら」はどう違うのか? っていうかそもそも違うものなのか?
今回の実例は、その点について明確にしてくれそうな例である。
記事はこちら:
今年5月、米放送局HBOは『ゲーム・オヴ・スローンズ (GOT)』の最終シリーズを放映し終えたばかりで、ネットはまだそれについての論評というか批判で盛り上がっていたときに、『チェルノブイリ』というミニシリーズが同局で放映され、GOTのことが一気に忘れ去られるほどのインパクトを人々に与えていた。
日本語圏でも既にこのドラマ(ドキュドラマ)を見た人々がそのすごさについてTwitterなどに投稿しているから、このドラマのことを聞いてはいるという人も多いだろう。日本語での感想などは下記にまとめられている。
予告編 (YouTubeでClosed Caption表示できるようになっているので、聞き取れない人はそれを使ってみてください):
Chernobyl (2019) | Official Trailer | HBO
さて、英語圏と英語で情報を得ることが日常化している世界がこのドラマに震えているときに、当のソ連……じゃなかった、ロシアが、自分たちなりに「チェルノブイリ原発事故の真実」を描いたドラマを放映した、というのが今回見ている記事の内容だ。
それが、だいたい想像はつくと思うが、「西側の言っていることは、我が国をおとしめるための嘘」というプロパガンダであるばかりか、「チェルノブイリの事故は実は西側が……」という陰謀論を語っているとのこと。具体的には「原発が爆発したとき、CIAの工作員がそこにいた」というストーリーで、007ものみたいなアクション映画、スリラー映画ならけっこうおもしろいんじゃないかと思われるが、問題は、これが「実話」として提示されている、ということだ。
英語の実例として見るのはそれを指摘した部分:
キャプチャ画像の2番目のパラグラフ:
If it sounds like fiction, that’s because it is. But the director, Alexey Muradov, said the show “will tell viewers about what really happened back then”.
このif節を含んだ文は、現在のことが現在形で表されている。つまり、現在のことを過去形で表す仮定法ではなく、《直説法》の文(《条件》を表すif節の文)である。
ここで直説法が用いられているのは、現にこの映画が(「真相」と銘打っていても)フィクションだからである(ただしこの映画を作った監督はフィクションだとは言っていないようだ)。
逆に、チェルノブイリ原発にCIAの工作員が浸透していたなどという主張のほうが仮定法で表されるべきだろう。
この文の主節の "that's because it is" は、《that's because S+V》「それは~だからだ」の構文で、it isの後にはfictionが省略されている。つまり文の意味は「もしそれ(=この映画)がフィクションのように聞こえるなら、それは実際にそれがフィクションだからだ」。
このキャプチャ画像にあるように、はっきりしているようでその実のらりくらりとした言葉遣いをして、「何が事実で、何が事実でないのか」の境界線をぼやかすようなことをするのは、プロパガンダや情報操作の手練れたるソ連/ロシアの当局の得意技である。その例はいくらでもあるが、最近ではシリア内戦について一般に流れている情報に多くの実例がある。ここでは深くは立ち入らないので、関心がある方は各自お調べいただければと思う。
なお、英語の「仮定法」「直説法」などの「法」は英語の文法用語ではmoodと言い、もうひとつ「命令法」を含めて3つのmoodがある。軸になっているのは、述べられることが「事実」かどうかで、「事実」であれば現在のことは現在形で表し(直説法)、「事実」でなければ、「私が述べていることは事実ではありませんよ」というマーカーとして現在のことを過去形で表すなどする(仮定法)。(なお、命令法の場合は動詞は全部原形になる。)それぞれの間に断絶があるわけではなく、ギアを切り替えるような感じで日常の「生きた英語」の中では使われている。
こういうことがわかっておらず、ただ念仏のように「反実仮想」と呪文のようなものを唱えさせるだけで誰かに英語を教えた気になってしまう人も塾講師などにはいるようだが、「ハンジツカソー」などという文言をいくら覚えたところで、moodはわからないだろう。
この点、関心がある方には、立命館大学の野村忠央先生の発表の原稿(下記URLでPDFで読める)がとてもわかりやすいと思う。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/18-4/RitsIILCS_18.4pp.79-94Nomura.pdf