このエントリは、2019年6月にアップしたものの再掲である。英文を読む分には気にしなくてよいが、書くとなると必ず気にしなければならないことを扱っている。
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今回の実例は、前々回のエントリで言及したHBOのドラマに関するBBCの追加検証記事から。
「検証」というのは今ここで私が端的に説明するために思いついた用語に過ぎない。「検証」といっても大掛かりなことをしているわけではなく、ドラマが描いている実際の出来事を、直接体験している人に「あのドラマ、どうなんすかね」と聞いてみた、という記事だ。
記事はこちら:
HBOのドラマ『チェルノブイリ』は、私はドラマ自体は見ていないが(HBOは、日本でもHuluで見られると思うが)、放映時にTwitterで英語圏の人々がどよめいているのは見ていた。いわく「迫真」、「リアル」、「何があったのか、よくわかった」など。放映後、かなり時間がたったあとも「インパクト強すぎて、まだ余韻が続いている」といった発言もあった。IMDBでも非常に高い評価を得ている――「非常に高い」というか、「IMDB史上最高の」というべきか。
だが、ドラマがドラマである以上、どれだけ入念に事実を調べたうえで作られていたとしても、一定の「フィクション」性は必ず前提としておかなければならない。例えば1972年1月30日のデリーでの非武装デモ隊への発砲事件を、その時その場にいた人々が事件直後に行った証言記録に基づいて「再現」したドキュドラマの名作、ポール・グリーングラス監督の『ブラディ・サンデー』でも、実際のあの事件のときに現場にいたデモ隊側の人々は「まさにあの通りだった」と言っていたが、誰を中心人物とするか、カメラをどう動かすか、誰のどこでの発言を映画という一本の時間軸のどこに置くかといったことには「フィクション」性が伴う。
そういった、いわば「どうすることもできないフィクション性」とは別の問題として、「事実に基づいた物語」というもののフィクション性の問題がある。そういった作品(多くは映画、ドラマ)の中には、時には誰の目にも「それはない」とわかるようなはっちゃけすぎている作り話もあるが、「リアルさ」を売りにするようなものはとりわけ、出来上がった映画の中でどこが事実に基づいていて、どこが作り手のフィクションなのか、観客にはわからないようになっているものがある。その代表例が、いつだったか米アカデミー賞で最優秀作品賞を受賞した『アルゴ』だ(今年の同賞作品、『ボヘミアン・ラプソディ』もそういう作品のひとつだが)。『アルゴ』については過去にその点について書いているので、そちらを参照されたい。
さて、では2019年のHBOのドラマ『チェルノブイリ』はどうか、というのが、今回BBCの抱いた問題意識である。そしてBBCは、1986年4月に実際にチェルノブイリ原子力発電所に入ったウクライナ(当時はソ連)の作業員Oleksiy Breusさんらに話を聞いている。それが今回の記事だ。
今回見るのは、記事の冒頭部分、BBCが話を聞いたBreusさんはどういう人なのかを紹介し、HBOのドラマについて説明しているところから。
A member of staff at the plant from 1982, he became a witness to the immediate aftermath on the morning of 26 April 1986.
日常生活において、日本語で「スタッフ」というと、「イベントの運営組織の一員」という意味になることが多いだろうか。「サマソニのスタッフ」とか「フェスの現場で気分が悪くなったので、スタッフの人を見つけて救護所に連れて行ってもらった」とかそういう感じで。
あるいは「映画のスタッフ」といえば「映画製作にかかわった人で、出演者ではない裏方」というような意味になるだろう。あるいは最近は、チェーン店のカフェで接客を担当する従業員を「スタッフ」と呼ぶといった日本独自の用法も一般化している。どちらにせよ「ひとりのスタッフ」とか「大勢のスタッフたち」という、(英語でいえば)可算名詞として用いられている。
一方英語では、「ある組織で(のために)働く人々の一団 (the group of people who work for an organization) 」という意味(出典は下記、ケンブリッジ辞書)である。つまり、「集団」を表す集合名詞だ*1。
したがって、「Breus氏は発電所のスタッフであった」と言いたければ、
× Breus was a staff at the power plant.
ではなく、
〇 Breus was a member of staff at the power plant.
としなければならない。(「パン」をa breadとは言えず a loaf of breadなどと言わなければならないというのと同じだ。)
これは、特に(学問英語ではなく)実用英語で「日本人に多い間違い」として定番化している項目で、ウェブ検索すれば非常にたくさんの関連エントリが見つかるだろう。例えば下記のような。
さて、そのうえでこの文:
A member of staff at the plant from 1982, he became a witness to the immediate aftermath on the morning of 26 April 1986.
前半の "A member of staff at the plant from 1982" は名詞句で、そこだけぽつんと浮いているように見えないだろうか。
これは、《be動詞を用いた分詞構文》で、be動詞が省略された形である。
分詞構文でのbe動詞の省略というと、受動態の分詞構文が思い浮かぶだろう。be動詞が省略された結果、過去分詞から始まる形になっている。
(Being) asked about the money, he did not give a proper answer.
(その金について質問され、彼はまともな答えをしなかった)
同様に、be動詞が省略されて形容詞から始まるものもある。
(Being) numb from the cold, his hands could not find the key. *2
(寒さで手が感覚を失っていたために、キーを手探りで探せなかった)
この形で、be動詞が省略されて名詞で始まっているのが、今回の実例である。
(Being) a member of staff at the plant from 1982, he became a witness to the immediate aftermath on the morning of 26 April 1986.
文意は「1982年以来、同原発の職員であったため(職員であり)、彼は1986年4月26日の午前中、(事故)発生直後の様子を直接目撃することとなった」。