このエントリは、2020年12月にアップしたものの再掲である。
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今回の実例はTwitterから。
今朝起きたら、ジョン・ル・カレが亡くなっていた。89歳だったという。年齢が年齢だし……とも思いはするが、何より、Brexitを見届けることなく逝ってしまわれたかという気持ちでしばらくぼーっとしてしまった。
ル・カレはときどきガーディアンで発言していたりもして、今朝のガーディアンはこの訃報をトップニュースとしていた。少し時間が経過したあとのPC版のキャプチャ:
数か月前に、現在のウルスラ・フォンデアライデン氏が就任するまで欧州理事会議長(EUの大統領のような存在)だったドナルド・トゥスク氏が、次のようなル・カレの言葉を引用して追悼している。
“I’m not just a Remainer. I’m a European through and through, and the rats have taken over the ship”. RIP John le Carré.
— Donald Tusk (@donaldtuskEPP) 2020年12月14日
ル・カレのこのことばは、今年2月1日付でガーディアンに掲載されたスピーチの一節だが、掲載期限切れ(著作権上の問題)で現在ガーディアンのサイトで読むことはできない。アーカイヴでは確認できる。 このスピーチは「オロフ・パルメ賞」授賞式でのもので、この賞は1986年に暗殺されたスウェーデンのパルメ首相を記念し、民主主義や人権のために尽力した人の功績をたたえて授与される。ガーディアンに掲載されたこのスピーチを読んで初めて私はパルメ首相という人がどういう人だったのかを具体的に知ったのだが、この暗殺が未解決であること(長い歳月のあとにようやく突き止められた容疑者が死亡しており、今年6月に捜査は打ち切られた)も含めて、実にル・カレ的である。なお、受賞についての記事はこちらで、1月30日に行われた授賞式にはル・カレはストックホルムに出向いていたということもわかる。そのころはまだ、新型コロナウイルスによる影響はほとんど出ていなかった。別世界のようだが。
訃報を受けて多くの作家がTwitterで発言しているが、エイドリアン・マッキンティのこのツイート:
if you've never read John Le Carre who sadly passed away yesterday
— Adrian McKinty (@adrianmckinty) 2020年12月13日
Tinker Tailor Soldier Spy is the place to start
as good as the BBC TV & recent film adaptation is neither comes close to capturing the brilliance of this book, quite simply the greatest spy novel ever written... pic.twitter.com/49SUuBjYu5
カジュアルな表記になっていて読みづらい点を標準的な表記にしてみると:
If you've never read John Le Carre, who sadly passed away yesterday, Tinker Tailor Soldier Spy is the place to start.
As good as the BBC TV & recent film adaptation is, neither comes close to capturing the brilliance of this book. Quite simply the greatest spy novel ever written...
第一文は特に問題ないだろう。《関係代名詞》のwhoを用いて「昨日残念なことに亡くなったジョン・ル・カレ(の作品)を読んだことがなければ、『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』が最初の一冊だ」と述べている。
難しいのは第二文だ。これは《譲歩》の構文で、下記のような例文で学習するasが使われている。主語はhe, 動詞はisで、youngは補語である。
Young as he is, he is rich.
(彼は若くはあるけれども、裕福である)
この《形容詞+ as + S + V》 の形だが、元々は《as +形容詞+ as + S + V》 の形で、『ジーニアス英和辞典 第5版』では「《主に米》では今でもこの形で使う」と説明されている(p. 121)。 ちなみにツイート主のマッキンティは北アイルランド出身で米国在住の作家である。
というわけでこの第2文:
As good as the BBC TV & recent film adaptation is, neither comes close to capturing the brilliance of this book.
ジョン・ル・カレの作品は多くが映像化されているが(そしてそのほとんどかあるいはすべてが、脚本に落とし込む作業にル・カレ自身が目を配っている)『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』はBBCのTVドラマとして、また映画として、2度映像化されている。
このジョン・ル・カレの代表作を「まだ読んだことがない人はこの作品からぜひ始めてほしい」と推薦したマッキンティは、「BBCのTVドラマも最近の映画もよいのだが、そのどちらもこの本(原作)のすばらしさをとらえることはできていない」と言い切っている。
《come close to doing》は「~することに近いところまで来る」と直訳できるが、要は「もう少しで~しそうだ」ということを表す。この文ではそれが主語の "neither" で否定されている。
ここでは、"neither" は「2つのうちのどちらも~ない」という否定の意味の代名詞である。これが主語の場合は、後に続く動詞は単数扱いになるのが通例だ。
Tom is a student and Jim is a shop assistant. Neither is rich.
(トムは学生でジムは店員だ。どちらも裕福ではない)
ジョン・ル・カレの主要な著作はほぼすべてが日本語訳で読める。ウィキペディアに網羅的なリストがある。『ティンカー、テイラー』は旧訳と新訳があり、個人的には断然新訳がおすすめである。BBCドラマは1979年でアレック・ギネスが主演、映画は2011年でゲイリー・オールドマン主演で邦題がちょっと安っぽい……。ちなみに、女性工作員による色仕掛けをいう「ハニー・トラップ honey trap」という英語表現は、この作品をきっかけに広まったそうだ。
ジョン・ル・カレの作品では、個人的はこの「スマイリー」のシリーズ以外のが心に残っている。ル・カレの小説は、文庫本で最初の100ページが退屈なのがデフォなのだが(おもしろくないノンフィクションを読んでいるような感じになる)、『リトル・ドラマー・ガール』はまさにその退屈な部分が、何というか、めちゃくちゃ刺さる。原著は1983年に出ているが、イスラエル/パレスチナに関心がある人なら今からでもぜひ読んでいただきたい。「ああここに全部書かれていたか」みたいな感覚を覚えると思う。『ティンカー、テイラー……』同様、映画にもTVドラマにもなっているが、映画版は主人公がイギリス人女性ではなくアメリカ人女性になっているなどして別物なので、探して見るならTVドラマのほうがよさそう。
長々と退屈な部分を読むということをしないと味わえない小説はちょっと……という向きには、回想録というか、ル・カレが自分の体験・経験で特に思い出せることをエピソードごとに綴った『地下道の鳩』がおすすめ。20世紀、冷戦期の現場をドイツ語の堪能なMI6職員として経験した作家の思い出話だ。
エイドリアン・マッキンティは、出身地ベルファストを舞台にした紛争ものではなく探偵もの(刑事サスペンス)の連作が次々と翻訳されている。「探偵もの」とはいえ紛争期の警察の話だから、紛争という背景とは切り離せない。それがべったりと北アイルランドを感じさせて重い。私は読むのが追い付いていない。
ジョン・ル・カレのサイト。最新作のプロモ展開中で、往年のスパイ映画のオープニングみたいでかっこいいですよ。
最新作(そして最後の作品)の日本語版も今年7月に出たところ。