今回の実例は、ある事件から50年を迎えるにあたり、事件を知る人々に話を聞いてまとめられた記事から。
今から50年前の1972年は、北アイルランド紛争で最も多くの血が流された年 (the bloodiest year; the darkest year) として記憶されている。あれよあれよと言う間に、「紛争」がエスカレートしていった年だ。
まず、1月に当時の自治政府がナショナリスト(カトリック)側から起きていた公民権要求運動に対する弾圧を強めたあと、1月30日にデリーで公民権デモに参加していた13人の市民が英軍に撃ち殺された(ブラディ・サンデー事件)。
ブラディ・サンデー事件は、それまではナショナリストの社会でもマイナーな過激派にすぎなかった武装組織IRA (the Irish Republican Army) にとって、思ってもいないほどの人員拡充のチャンスとなった。「一人一票」を求めてデモに参加したら撃ち殺されるという現実を前に、「あっちがああならこっちも武装して戦わなければ」と思った人々は、とても多かった。これは映画『ブラディ・サンデー』のラストシーンで、公民権運動のリーダーだったアイヴァン・クーパー議員の発言(実際の記者会見での発言そのまま)として述べられている通り、事件のあった当日には表明されていた危惧が現実になった形だ。
一口にIRAと言っても、1972年にはIRAはOfficial IRAとProvisional IRAに分派していたのだが、アルスター大学の紛争データベースを参照するに、ブラディ・サンデー事件後はOIRAもPIRAも活動を活発化させている。(その後、OIRAは武装活動をやめていく。北アイルランド紛争でのIRAといえば、主にPIRAを指す。)
そして、ブラディ・サンデー事件から半年近くが経過した1972年7月21日、北アイルランドの首府ベルファストが、IRAの連続爆弾攻撃の標的となった*1。この日は金曜日だったので、「ブラディ・フライデー」(血の金曜日)と呼ばれるようになる。
IRAとしては「ブラディ・サンデー」の報復という大義名分で「ブラディ・フライデー」の攻撃を行ったという《物語》があるわけだが、街のある場所にいるデモ参加者が標的になった「サンデー」に対し、「フライデー」では街そのものが標的となった。無差別爆弾テロである。ベルファストの街中で、短時間の間に、次々と時限爆弾が爆発した。あまりに数が多く、あまりに短時間だったので、当日の情報は大混乱だった。この日のベルファスト・ニューズレター紙は「爆発26件」「死者11人」と打っているが、実際には「爆弾22件」「死者9人」である。
Bloody Friday: media united in revulsion at slaughter of innocents https://t.co/70LXqJ68j7
— Belfast News Letter (@News_Letter) 2022年7月21日
死者数が比較的少なかったのは、IRAのボム攻撃にはいつものことだが、曲がりなりにも「予告」が出されたことによる。落命した9人のうちの一人、14歳のスティーヴン・パーカーさんは、夏のバイト先の商店の前で車の後部座席に爆発物があるのを発見して、商店街の店を1軒1軒回って「爆弾だ、逃げて」と告げていて、爆発で吹き飛ばされた。彼が気づいていなかったら、あるいは気づいてすぐに逃げていたら、犠牲者はもっと多かったかもしれない。
また、爆発する前に英軍が急行して処理された爆発物もあった。これも、爆発物処理が間に合わなかったらどうなっていたかわからない。
1時間ちょっとの間に20件を超える爆発があるという、想像を絶するような攻撃は、生命までは奪われなかった多くの人々から日常生活を奪い、ベルファストの街に深い傷を残した。さらに、事件の首謀者、責任者、実行役などは誰も法の裁きを受けていない(これが北アイルランド紛争である)。50年後の今も、多くの人々がその傷とともに生きている。
そういうことを、実際に人々に会って話を聞いてまとめられた記事が、BBC News NIに出ている。こちら:
何が起きたのか、なぜ起きたのか、真実を知らされねばならない、という、事件で父親のジャッキーさんを殺されたロバート・ギブソンさんの言葉が見出しに取られている。
この記事で、一番下のところで自身の経験を語っているのが、消防士として現場に急行したスタン・スプレイさんだ。彼はオックスフォード・ストリートのバス車庫兼停車場での爆発現場の惨状を目撃した。
スプレイさんの話の部分から:
キャプチャ画像内に《分詞構文》の構造になっているものが2か所出てくる。
まずは一番上:
Aged 18 and newly qualified, he was getting ready for his passing out parade and instead was sent out into what he called "the carnage" on Oxford Street.
そして一番下:
The bus station no longer exists, having later been demolished to make way for offices and a plaza in front of the Waterfront Hall.
前者は、江川泰一郎『英文法解説』では「解釈上beingを補える例」(p. 345) と位置付けられているが、文頭にBeingを置いてみると文意がはっきりするだろう(別にそんな操作をしなくても文意が取れるなら、それでよい)。つまり:
Being aged 18 and newly qualified, he was getting ready for his passing out parade and instead was sent out ...
文意は、「18歳で(消防士の)資格を得たばかりで、彼は任命の式典に出るための準備をしていたが、その代わりに、…に送られた」。
省略した…の部分:
what he called "the carnage" on Oxford Street.
《関係代名詞のwhat》を使った表現である。この表現を使えるようになると、こなれた感じの英文が書けるようになる。なお、ここの "called" という過去形は、事件当時のことを言うのではなく、記者がスプレイさんに話を聞いたときのことを言う過去形である。
意味は「オックスフォード・ストリートの、彼が『大虐殺』と呼ぶもの」と直訳される。
2つ目の分詞構文:
The bus station no longer exists, having later been demolished to make way for offices and a plaza in front of the Waterfront Hall.
爆弾テロの現場となったバス・ステーション(車庫兼バス停)について「もう存在していない」と述べたあと、《完了分詞構文》を使って、その場所がどうなったかを説明している。ついでに言えば、これは《受動態》でもあるが、そこまでの説明は不要であろう。
意味は「その後、ウォーターフロント・ホール正面のオフィスビルと広場のための場所をあけるために、取り壊されたため」となる。
この記事は、ここで取り上げた部分以外のところも全部読んでいただきたい。そして、50年という時間と、「法の裁き (justice)」というものについて、少しでいいから想像してみてもらいたい。そのうえで、現在の北アイルランドがどれほど微妙な基盤の上にあるか、今の北アイルランドを取り巻く情勢にはどういう意味があるか(情勢が人々にどういう意味を持つか)を考えてみてほしい。
それを考えるためには、生の情報が必要になるが、それはTwitterで探せる。私も北アイルランドについてのリストを作っているから、そちらも参照していただきたい。
※3600字