今回の実例は、クリスマス前の「小ネタ」系記事から。
チャールズ・ディケンズという名前は日本でもよく知られている。19世紀ヴィクトリア朝の英国を代表する小説家のひとりだ。当時の超売れっ子の流行作家で、ものすごい多作なのだが、中でも『クリスマス・キャロル』『オリヴァー・ツイスト』、『二都物語』、『大いなる遺産』といった作品は20世紀、に複数回映画化されていて、本を読まない人でも話を知っていることが多い。現地(英国)では「教科書に必ず載っている文豪」という存在なので、誰もが一度は何かしら作品を読んだことがある。日本で言えば夏目漱石と言われることもあるが、実際に作品に接する機会の多さでは宮沢賢治みたいな存在じゃないかと思う。いや、実際にはそれ以上で、アートフル・ドジャーやフェイギンやスクルージといった登場人物がその小説の外で認識されるくらい、常套句を用いれば「国民に親しまれている」作家だ。当然、とっくの昔に著作権は失効しているから、作品はネットで自由に読めるようになっている(下記、プロジェクト・グーテンベルクへのリンク参照)。何か読むものを探しているという方は見てみるとよいと思う。19世紀の英語は、勝手にイメージするほど古臭いものではない。
私自身、ディケンズは、中学・高校のときに日本語訳を学校の図書館で借りて読んでいるのと、映画化作品を何作か見ているだけで、実際のディケンズの文を読んだことはほとんどない。大学受験のときに使った問題集で長文の素材文として使われていたり、大学で読んだ論文に一部抜粋が入っていたりしたので断片的に読んだことはあったが、小説としてディケンズの書いたものをそのまま読むという機会はないままだった。先日、ちょっとしたきっかけがあって『クリスマス・キャロル』を読んでみたのだが、とても読みやすくて楽しめる英文だ。必要があれば日本語訳(多数出版されている)と照らし合わせて読んでみてもよいだろう。寛大さと善行、思いやりという、英語圏での現在の「クリスマス・スピリット」を決定づけたのが、この小説だそうだ。
というわけで今回の記事はこちら。そのディケンズが、生涯最後となった1869年のクリスマスをどう過ごしたかがわかった、という「小ネタ」記事。長らく忘れ去られていた書簡が再発見されたのだそうだ。
この記事は、最初のパラグラフで全体の内容のあらましが書かれ、2番目のパラフラグから後で内容が詳細に説明されている。これが報道記事の標準的なスタイルだ。このスタイルの文章は、出だしのパラグラフを読んでよくわからなくても、そこで止まらずに先に進んで読んでいくと内容がつかめる。
分量がある記事ではないので、全文に目を通していただきたい。
実例として見る部分は記事の下の方から。
キャプチャ画像で2番目のセクション、リード・キュレーター(学芸員の長)のエド・バーソロミュー氏のコメントを紹介している部分から:
The bleak irony of this discovery is that the man who did so much to shape our Christmas experiences may himself have been left with an empty stomach on his last ever Christmas day.
やや長い文だが、文全体の主語は "The bleak irony of this discovery" で、"that the man ..." のthat節は補語。「この発見が示す厳しい皮肉は、……(that節)である」というのが文の骨格になる。
that節内は "the man who did so much to shape our Christmas experiences" が主語で、このwhoは《関係代名詞》だ。特に文法的な説明は必要ではないと思うが、意味は「私たちのクリスマスの経験を形作るために非常に多くのことをした人物」。これは、ディケンズが『クリスマス・キャロル』などで描いた慈善がそのまま、「クリスマスらしい行為」として社会の中で定着していることを言っている。
that節内の動詞だが、太字にした部分は《助動詞+have+過去分詞 ~》の形。ここでは助動詞がmayなので意味は「~した(していた)かもしれない」となる。
そして、下線で示したように、この《have+過去分詞 ~》の《過去分詞 ~》の部分が《be+過去分詞》(受動態)で、意味は「~されていたかもしれない」となる。
mayとhaveの間に入っている "himself" は、主語の "the man" を強調する役割で、全体では「彼自身、空っぽの胃袋を抱えたままにされていたかもしれない」の意味。
クリスマスの時期に「人にやさしく、恵まれない人に必要なものを与えよう」という善行を定着させたとされる小説家が、生涯最後のクリスマスを、この記事でここまで説明されてきたようなアクシデントの結果、空腹のまま過ごしたかもしれない、ということだが、それはbleak irony(bleakはけっこう訳しづらい単語だが、「厳しい皮肉」とあえて直訳しておこう)だ、と言っているわけだ。
記事をここまで読んでいればわかると思うが、気の毒な作家の身の上に何があったかというと、この年、ディケンズの元には特大の七面鳥が届けられる手はずだったのだが、その七面鳥が輸送中にアクシデントで燃えてしまい、意図せずに出来上がった七面鳥の丸焼きは、ディケンズの手元に届けられる手前で1人前6ペンスで人々に供されたということだ。一方ディケンズは楽しみにしていた七面鳥がクリスマス前日にも届かないので「どういうことよ。届いていないんだけど」みたいな文面の手紙を、送り主に出していたという。
避けがたい事故のせいで七面鳥を受け取れなかったディケンズだが、肉が無駄にならなかったことはよかったと受け止めていたようで、翌年2月に鉄道会社に送った手紙の写真がこの記事に掲示されている。
さて、では七面鳥を受け取れなかったディケンズはどうしたのか。記録は残っていないようだが、博物館のアーカイヴ・ボランティアのアン・マクリーンさんは次のように推察している。
We know from A Christmas Carol that it was possible to buy one on Christmas morning, as Mr Scrooge did for the Cratchit family, but the great Dickens might have had to make do with a humble goose.
『クリスマス・キャロル』で、スクルージ氏はクリスマスの日の朝に七面鳥を買ってクラチット家に贈っている。この作品は1843年に出版されており、その時代には既にクリスマス当日に七面鳥を買うことができていたということを示してるが、1869年のクリスマスにディケンズが七面鳥を調達できたかというと、何も断定できる根拠がないのだろう、ここでも《助動詞+have+過去分詞 ~》の形を使って「質素なガチョウで済ませなければならなかったかもしれない」としている。
ここでは《助動詞+have+過去分詞 ~》の助動詞はmightで、mayよりさらに確度が低いが、「~だったかもしれない」という意味。これの《have+過去分詞 ~》の部分が "have had to do ~" になっていて、「~しなければならなかったかもしれない」という意味になっている(have to do ~ = 「~しなければならない」)。
《make do with ~》は熟語で「~で間に合わせる」「とりあえず~で済ませる」といった意味。本当はもっと適したものがあるのだが、それがないので代替品で済ませるというときに使う。
Broken umbrella? Here's duct tape! Let's make do with it.
(傘が壊れてる? ダクトテープあるから、とりあえずそれで修理しよう)
参考書: