今回の実例はTwitterから。
ジョー・バイデンの圧勝に終わった(が敗北した現職がなかなか負けを認めないのでめちゃくちゃな事態になっている)米大統領選の投票日を間近に控えた10月の終わり、米国各地から武装した「ミリシア (militia)」と呼ばれる集団が街をうろついて威嚇しているという話が聞こえてきていたころ、大統領選の開票結果がわかったあとの現在ではトランプを完全に見放している「保守系」タブロイドのニューヨーク・ポストがバイデンの息子についてのガセネタ(というか狭義でのデマ、つまり政治的目的のある嘘)を掲載したことが依然話題になっていて*1、そのガセネタがいかにデタラメな出自であるかが明らかにされるなどしていたころに、一杯の冷たい水のようなツイートが私の見ている画面の中に流れてきた。こちら:
Had he not been murdered, Emmett Till would have been only a few years older than both our presidential candidates this year. The past isn't that far past. https://t.co/3Qf1AX7ULe
— zeynep tufekci (@zeynep) 2020年10月30日
書き出しの "Had he not been murdered" は、《仮定法過去完了》 のif節のifが省略されて、《倒置》が起きた形である。日本ではこの形については*2「日本では受験英語として教えられるがネーティブは使わない」という間違った思い込みが蔓延し(そもそも「ネーティブ」とは誰なのかという問題もあるのだが)、それが「英文法不要論」の根拠になったりもしてきたのだが、実際には英語圏では普通に使われている形である。なんだかんだとちょこまかニュースなどを読んでいれば、週に1度は遭遇すると思う。当ブログでも何度か取り上げている。
省略された形を、省略しない形と並べてみよう。
Had he not been murdered
= If he had not been murdered
節の先頭の "If" が省略されたことで、主語の "he" と助動詞の "had” の位置が逆転し(つまり、倒置が発生し)、"he had not been" が "had he not been" という形になったわけだ。
この部分の意味は「もしも彼が殺害されていなかったら」。
ここまでの5語を読んで、この "he" とは過去において殺害されてしまった人物だということは瞬時にわかる。ではその "he" とは誰のことか、というのが、この節に続く主節の主語となっている。
Emmett Till would have been only a few years older than both our presidential candidates this year.
エメット・ティル。#BlackLivesMatter運動(これについても日本語圏では本当にデマと不正確な情報が多くて、実際のことが伝わっていない。英語で情報を入れない人々と英語に接している人々との情報ギャップがひどい。日本語圏で信じられているBLMは、ハリウッド映画の中の類型的な日本くらい現実離れしていると言っても過言ではなかろう)の文脈で名前が出てくるのをときどき見る。例えばこのオハイオ州デイトンでのプラカード(2019年5月)とか、今年6月に撮影されたワシントンDC、キャピトル・ヒルでのプラカードとか(→一部拡大写真を下記に)。
"Say their names" 「この人たちの名を口にせよ」という標語の下に、今年のテニス全米オープンで大坂なおみ選手がマスクにつけていた数々の名前や、大坂さんが着けられなかった名前が並ぶ中に、Emmett Tillとある。下から2行目の左端だ。エメット・ティルもまた、アメリカでのレイシズムの暴力で殺された、つまり「matterしない命」として扱われた黒人のひとりである。ただし、最近殺された人ではない。
エメット・ティルは1941年7月生まれ。今回実例として見ているゼイネップ・テュフェクチさん(トルコ出身で米国のプログラマーで社会学者)のツイートにある通り、大統領選の主要候補者2人よりほんの少しだけ年上だ(選挙で負けた現職のドナルド・トランプが1946年生まれで、次期大統領となったジョー・バイデンが1942年生まれ)。エメット・ティルは、今も生きていれば、あのくらいの年齢のおじいちゃんになっていたわけだ。それが "The past isn't that far past." の意味。「過去は、そんなに遠い過去ではない」。昔の話でしょと思っているかもしれないが、そんなに昔のことではない、ということだ。
エメット・ティルが人種主義に基づいた暴力で殺されたのは1955年で、彼はまだ14歳だった。でも、大坂なおみさんがつけていたマスクに名前があった12歳のタミル(タミア)・ライスと同様に、10代とは思えない大人びた体格をしていた。ぱっと見、見た目は大人だったのだ。
北部のシカゴに生まれ育った彼は、人種による差別待遇(分離、隔離)をしないことが違法だった南部のミシシッピー州の親戚の家に遊びに行って、現地のやり方にそぐわない行動をとったとしてリンチされて惨殺され、川に捨てられた。
その「現地のやり方にそぐわない行動」というのは、黒人の男が白人の女にいわばちょっかいを出すような行為だが、それは当時最大のタブーだった。そのあたりはアメリカの黒人差別についての研究書などを読んでいただきたい。
エメット・ティル少年は、現地の仲間たちと一緒に訪れた食料品店で、店番をしていた女性(店主の妻)に向かって口笛を吹いた、というのが、加害者側の言い分だ。本当に少年がそんなことをしたのかどうかははっきりしていない。だが「生意気な黒人」を締め上げるのが正義と考えている側にとってはそんなことはどうでもいい。そう思われるようなことをした、それだけで十分な理由になった。だから少年はリンチされて頭を半分吹き飛ばされて川に捨てられた。
彼がそんな目にあわされておらず、その後も健康で、戦争に取られて死んだり事故にあったりしていなければ、2020年には79歳になっていた。
と、ここまで書いて、あとは「エメット・ティル殺害事件について書かれている本は多くあるし、まずはウェブ検索で調べてみてほしい」と書いて約3000字で締めようと思っていたのだが、自分でウェブ検索して出てきたウィキペディア日本語版に例によってかなりひどい誤訳を見つけたので、またそこで時間を吸い取られることとなった。以下、連ツイをはりつけておく。
原文: "Till's mutilated corpse on display. His mother had insisted on an open-casket funeral." (写真キャプション) など。https://t.co/ddyh0EA3yB
— n o f r i l l s /共訳書『アメリカ侵略全史』作品社 (@nofrills) 2020年11月23日
日本語: "棺の中の切断されたティルの死体", "ティルの切断された遺体の写真" https://t.co/d2Su3GRx8v
問題はこの "mutilated". 1/n
mutilateは、確かに英和辞典では「手足を切断する」「手足などを切断する」という語義が与えられている。研究社新英和、小学館プログレ3、大修館G5いずれも「切断」がコア概念で新英和とプログレは比喩的に用いられるときの語義を含めて「切断」をコア扱い(プログレはベースはランダムハウス) 2/n pic.twitter.com/It2NHobaPY
— n o f r i l l s /共訳書『アメリカ侵略全史』作品社 (@nofrills) 2020年11月23日
しかし英英辞典ではこう。Merrium-Webster (米), Oxford, Cambridge, Collins(これら、誰でも無料でアクセスできる)。Oxfordの語義がわかりやすい。"to damage somebody’s body very severely, especially by cutting or tearing off part of it" 3/n pic.twitter.com/9b8PANytum
— n o f r i l l s /共訳書『アメリカ侵略全史』作品社 (@nofrills) 2020年11月23日
つまりmutilateは「手足などを切断する」ではなく「手足などを切断などする」。これでは日本語としてひどいので言い換えると「身体の重要な部分を切り落としたりめちゃくちゃにしたりする」ということになる。もっと短く言えば「身体を損壊する」だろう。だが英和辞典では「切断する」と決め打ち。 4/n
— n o f r i l l s /共訳書『アメリカ侵略全史』作品社 (@nofrills) 2020年11月23日
その訳語に縛られているから、"photographs of his mutilated corpse" という英語フレーズを訳すときに「ティルの切断された遺体の写真」としかしないんだけど、実際には英語版ウィキペディアには当のその写真が掲載されてて、そこには「切断された遺体」など写ってないわけですよ。5/n
— n o f r i l l s /共訳書『アメリカ侵略全史』作品社 (@nofrills) 2020年11月23日
その写真は、当時米メディアに掲載されたもので英語版ウィキペディアにも普通に(マスクされずに)掲載されているが、あまりうっかり見ない方がいい写真だからここには転載しないけれど、それを見れば「このmutilateは『切断』の語義とは違うんでは」と気づくはずなんですよ、翻訳をする人ならば。6/n
— n o f r i l l s /共訳書『アメリカ侵略全史』作品社 (@nofrills) 2020年11月23日
しかしウィキペディア日本語版では「切断された」となってる。遺体の写真では切断などされていないのに。どこの何を見て翻訳してんのと問えば、英和辞典を見ましたと返ってくるんだろう。大学受験生ならそれでも点数はもらえるけど、仕事としての翻訳そうじゃない。「仕事」ていうか「作業」か。7/n
— n o f r i l l s /共訳書『アメリカ侵略全史』作品社 (@nofrills) 2020年11月23日
タイポ: ×仕事としての翻訳 → 〇仕事としての翻訳は
で、英語版ウィキペディアでエメット・ティル少年の写真を見て「別に『切断』はされてないよねえ……」と考えて英英辞典を引けば「損傷が激しい」「損壊された」系の日本語が思い浮かぶはずなんだけど、それに加えて英語版には "His head was very badly mutilated" という記述すらある。8/n
— n o f r i l l s /共訳書『アメリカ侵略全史』作品社 (@nofrills) 2020年11月23日
"Head" が "mutilate" されるとはどういうことか。英和辞典の訳語にとらわれていると「斬首」と考えてしまう(そしてそのように訳してしまう)だろうけれど、実際に写真を見ると、エメット・ティル少年は斬首はされていない。さあ、どうする。 9/n
— n o f r i l l s /共訳書『アメリカ侵略全史』作品社 (@nofrills) 2020年11月23日
そこで英英辞典を見るわけです。するとbe mutilatedについて、"severely damaged" といった定義がされている。これですよ。エメット・ティル少年は頭を銃撃され、殺害から数日後に川から引き揚げられた遺体の頭部は原形を留めていなかったんです。それがmutilatedという過去分詞で表されている。10/n
— n o f r i l l s /共訳書『アメリカ侵略全史』作品社 (@nofrills) 2020年11月23日
で、そこまで作業を進めたら、それで終わりではなく、さらに「損傷が激しい」とか「損壊された」という日本語が、エメット・ティル少年の事件について使って違和感がないかどうか、誤解・誤読を招かないかどうかを検討するわけです。11/n
— n o f r i l l s /共訳書『アメリカ侵略全史』作品社 (@nofrills) 2020年11月23日
日本語では、こういう場合の「損傷が激しい」は、遺体発見まで時間がかかって腐敗が進んでいたことを表す可能性もあるので(あと、焼死体で性別もわからないくらいに焼けている場合などもあるが)、誤解を招きかねないなあと考えて、「損壊」に絞り込むわけです。12/n
— n o f r i l l s /共訳書『アメリカ侵略全史』作品社 (@nofrills) 2020年11月23日
仕事であれば、さらにここで厳密に決めていく作業が続きますが、ウィキペディアにそこまでリソースを割くことは私にはできないし、「切断されていたわけではない」ということを示せればよいと思うので、ここでウィキペディアを編集しに行きます。実況連ツイはここまで。 13/了
— n o f r i l l s /共訳書『アメリカ侵略全史』作品社 (@nofrills) 2020年11月23日
ウィキペディア編集してますが、日本語がすごすぎてめっちゃ時間がかかる。「葬儀」と「葬式」の混在など序の口。「地元ミシシッピー州の新聞社と州司法当局は……最終的にはミシシッピー州当局が殺人者を擁護する立場へと転換した」という記述とか、どうしたらいいのか全然わからない。14/実況再開
— n o f r i l l s /共訳書『アメリカ侵略全史』作品社 (@nofrills) 2020年11月23日
なぜなら原文がわからないから……と探したら、これかー。これ、「最終的にはミシシッピー州当局が」じゃなくて「最終的にはミシシッピー州当局は」じゃね。 15/n pic.twitter.com/SrLG5nyhuF
— n o f r i l l s /共訳書『アメリカ侵略全史』作品社 (@nofrills) 2020年11月23日
編集してきたよ。 https://t.co/Ro9o08jTZG 問題の誤訳はまだもう1カ所あるので、これからそちらをやる。16/n pic.twitter.com/qpT1CfB8sC
— n o f r i l l s /共訳書『アメリカ侵略全史』作品社 (@nofrills) 2020年11月23日
終了。もう1カ所の誤訳修正のほうはもうほんとにその字句だけ見て終わり。「他にもついでに気が付いたところは直そう」なんてやり始めたらどんだけ時間があっても足りない。そもそも私は明日のブログを仕込んでいたのに、その作業が全然できていない(この連ツイ埋め込むけど)。17/了 pic.twitter.com/PRliVcy7ti
— n o f r i l l s /共訳書『アメリカ侵略全史』作品社 (@nofrills) 2020年11月23日
参考書:
*1:あの説が完全なでっち上げでデマだということは確定しています。
*2:この形についてだけの話ではないので、正確には「この形についても」。でも「も」を使うと読みにくくなるのでここでは「は」を使っておく。