今回の実例は、報道記事から。
英語では、人によって [ŋ] の音が [n] の音に置き換わってしまうこと(綴りで示せば "-ng" が "n" になること。例: doing → doin')がある。「人によって」というより、「集団によって」と言った方がよいかもしれない。 [ŋ] の音を [n] の音で発音する集団がいる、という感じで、その「集団」の話し方に特徴的なものとして、つまり「〇〇訛り」の一部として、認識されている。
英国の場合、特にロンドン下町の労働者階級、「コックニー」と呼ばれる人々がこの話し方をする。同じロンドンの人々であっても階級が違う人びとは [ŋ] の音は [ŋ] の音で発音するが、労働者階級を気取りたい場合はわざと [n] の音で発音する。米国の場合はこういう発音は「南部訛り」(テキサス州など)の大きな特徴のひとつであり、「黒人英語」の特徴でもある。
だから、アメリカの黒人の音楽にルーツを持つロックでは、この、 [ŋ] の音を [n] の音にする発音がよく見られる。というか標準的なものになっているといってもよい。エルヴィス・プレスリーの "Hound Dog" の歌い出しが "You aint nothin' but a hound dog" なのはとてもわかりやすい。
この現象は、綴りでは"-ng" が "n" になるので、g-droppingと呼ばれているが、実際の音としては何かをdropしているわけではなく、よく似た別の音に置き換えている。G-droppingについては、英語版ウィキペディアにそこそこ充実した解説があるので、関心がおありの方はそちらを参照されたい。
https://en.wikipedia.org/wiki/Phonological_history_of_English_consonant_clusters#G-dropping
というのが前置き。
そういう事情だから、英国ではこの g-dropping は「教養のない、下品な労働者階級の言葉」のシンボル的なものになっていて、お上品な界隈では嫌われているしバカにされてもいる(が、それを表立って言い立てる人はあまりいないかもしれない)。お上品な界隈を離れて一般に広げても、「テレビのニュースキャスターがこういうしゃべり方をしていたら、聞く気がなくなる」ということはあるかもしれない(それをネタにしたコメディなどはいくらでもあると思う)。映画『マイ・フェア・レディ』でも見られるし、50年かそこら前に、ロンドンのコックニーがウエストエンドのエスタブリッシュメントの中に入り込んで出世しようとして発音矯正を受けたときに最初に直されたのがこれだというインタビューも読んだことがある。
だが、それが自分のしゃべり方であるという「誇り」を抱いている人たちも、とても多いし、中にはテレビに出ている人でこのしゃべり方をしている人もいる。俳優ならばいろいろな訛りを使い分けるが、スポーツ界の人などは自分のしゃべり方をそのままテレビでも使う。これはどこの出身の人でも同じである(例えば、マンチェスターの人はマンチェスター弁でテレビでしゃべっている)。もちろん人それぞれで、「標準語」を使っている人もいるのだが。
ということが、ちょっとした騒ぎを引き起こした。というわけで今回の記事はこちら:
アレックス・スコットは元プロフットボーラー(女子サッカー)。アーセナルの女子チームなどで活躍し、イングランド代表としても輝かしい実績を残して勲章までもらっていて、現在はテレビでサッカー解説者として活躍している。彼女はロンドンの東部、ポプラーという場所の労働者階級の出身で、ばりばりのコックニーである。
その彼女が、今回テレビで解説をしているのを聞いて、「聞くに堪えない」とSNSでわめきたてたのが、上院議員である(つまり「貴族」である)ディグビー・ジョーンズ卿。経済界の大物で、「卿」の肩書は一代貴族だが、大学はオックスブリッジではないもののパブリックスクール出身である。
※このあと書きかけ。PC不調なので再起動して、すぐに書きます。すみません。→IMEの設定の初期化と再起動で直りました。カーソル移動するだけで日本語入力と直接入力が切り替わってしまうようになっていた。ショートカットキーを触っちゃってたのかもしれない。
ガーディアン記事にも引用されているディグビー・ジョーンズ卿の発言:
Enough! I can’t stand it anymore! Alex Scott spoils a good presentational job on the BBC Olympics Team with her very noticeable inability to pronounce her ‘g’s at the end of a word.Competitors are NOT taking part, Alex, in the fencin, rowin, boxin, kayakin, weightliftin & swimmin
— Lord Digby Jones (@Digbylj) 2021年7月30日
ちょっと笑ってしまったのだが、確かに五輪種目は英語では "-ing" で終わるものが多いから、いわゆるg-droppingは耳につくのかもしれない。
ジョーンズ卿のこのツイートに対する人々のリプライも、ウィットがきいた返しが多く、読むとなかなかおもしろいのだが、今回はそこは飛ばして、アレックス・スコットの反駁:
I’m from a working class family in East London, Poplar, Tower Hamlets & I am PROUD 🙌🏾
— Alex Scott MBE (@AlexScott) 2021年7月30日
Proud of the young girl who overcame obstacles, and proud of my accent!
It’s me, it’s my journey, my grit.
(1/3) 👇🏾 https://t.co/EObv88MVS0
3連投の最初のツイートだが、公民権運動などで使う「私は……で、私は誇りを抱いている」という定型文に則っている(例: I'm gay and I'm proud.)。文法的に特に注目点はない(関係代名詞程度だ)。
文意は「私はロンドン東部、タワー・ハムレッツ区ポプラーの労働者階級の家の出身で、私は誇りを持っています(恥じてはいない)。いくつもの障害を乗り越えた若い女性を誇りに思っています。そして自分のしゃべり方に誇りを持っています。これが私であり、これは私の歩みであり、私の力です」
A quick one to any young kids who may not have a certain kind of privilege in life.
— Alex Scott MBE (@AlexScott) 2021年7月30日
Never allow judgments on your class, accent, or appearance hold you back.
Use your history to write your story.
Keep striving, keep shining & don’t change for anyone 👊🏾
2/3 pic.twitter.com/XITlhtgtxg
2番目のツイート。 書き出しの "A quick one" は「とりあえず一言だけコメントしておくと」みたいな意味。"A quick note" とも言う。Twitterで検索するといろいろな例が見つかる。
第1文、ここでも関係代名詞が出てきて、「人生におけるある種の特権を持っていないかもしれない若い人たちに向けて、取り急ぎ一言コメントしておきます」。
ジョーンズ卿のような人が持っている「特権」は the privilege と言ってよいと思うのだが、アレックス・スコットがここで "a certain kind of privilege" としていることには、「特権というものにはいろいろある」という今日的な認識が反映されている。ここで彼女が、硬直化した「特権階級め」みたいなことを言いだしていないあたり、個人的にとても印象的だ。
そして今回実例として見たいのはその次の文:
Never allow judgments on your class, accent, or appearance hold you back.
構文としては《allow + 目的語 + to不定詞》で、目的語が少し長くなっている形だが、それよりここ、《to不定詞》の代わりに《原形不定詞》が用いられていることが注目ポイントだ。
これは辞書には載っていない用法で、ばりばりの《非標準》なのだが、ときどき見られる用法である。ウェブ検索するのもめっちゃくちゃめんどくさいので、その筋の方(この筋の方は)、実例を見たら書き留めておくとよいだろう。
日本語圏で検索してみたら、下記のブログさんでも注目しておられた。
help が原型不定詞 [原文ママ]*1 を取るのが主流になっちゃったことを考えると
allow も get も20年後くらいには to が抜け落ちるのが主流になってるかも
言葉は簡素化される傾向にあるからね
20年では「主流」にはならないと思いますが、確かに、200年後はわからないっていう変化っすね……。(この日本語の音便などもそういう変化のひとつです)
文意は、直訳すると、「あなたの階級、話し方や外見に対する判断に、あなたをhold backさせてはならない」。
※hold backは、アレックスの意を汲んでこの文に合うように日本語にしようとしたら私が無料でできる範囲を超えた翻訳になるのでルー語方式にしておきます。各自、辞書引いてください。
文頭に "Never" を置いて《否定》の《命令文》を作っていることにも注目しよう。
アレックスのこの投稿は、この次の文がめちゃくちゃかっこいい。
Use your history to write your story.
「あなたのstoryを書くために、あなたのhistoryを使いなさい」、つまり「あなたのhisoryを使って、あなたのstoryを書きなさい」。
これは英語じゃないとできない表現で(historyとstoryは語としてつながりがある)、とても決まった文だ。おそらくアレックスもだれかにこう言われて触発されたという経験があるのだろう。
アレックスは「マイノリティ」の1人なのだけど*2、「マイノリティ対マジョリティ」という硬直化した構造でとらえず、「あなたの物語、あなたの歴史」で語っている。これは古き良きフェミニズムの一番柔軟な態度でもある。
そして最後の1文が、鮮やかな切り返しになってて:
Keep striving, keep shining & don’t change for anyone
"strivin", "shinin" ではなく "striving", "shining" と書いている。これによって、自分は卿のような人からバカにされるような存在ではないということを示している。
「誰かに何かを言われたからって自分を変えたりしてはいけない」というメッセージが、とても力強い。
ツイートについているGIFはミシェル・オバマの極めてインスパイアリングのスピーチの一部だ。
このあと、3件目でアレックスはマヤ・アンジェロウの言葉をGIFで引用している。
Tweets like this just give me the energy to keep going ⛽️🙌🏾
— Alex Scott MBE (@AlexScott) 2021年7月30日
See you tomorrow.. live on BBC baby 😘 pic.twitter.com/oI21jpK6r5
さて、既に5000字を超えているのだが、もう少し続ける。
アレックスにこのように反駁されたジョーンズ卿は「発音(滑舌)が悪いと言ってるだけだ、彼女の生まれ育ちを問題にしているわけではない」とさらに反駁しているのだが、そこで「語尾のgをちゃんと発音しろ」と、音声学的に正しくないことをぎゃあぎゃあわめきちらしているので、実にみっともないことになっている。本エントリの一番上に書いた通り、いわゆるg-droppingは「gを発音しない」のではなく「ngの音をnに置き換えてしまう」という現象だ。こうなると、Twitter上の英語学畑がお祭りになると思う。見物に行ったら楽しいんだろうな……。
※5500字
日本で出ている「イギリス英語」本はほぼすべて、ジョーンズ卿が好むような「標準語」(PR pronunciation, BBC English) を扱っている。コックニーとかを知りたい人は、店頭で中身をよく確認しないと、「ハズレ」本ばかり買ってしまうことになりかねない。近くに書店がなければ、版元(出版社)に「この本はコックニーを取り上げていますか」と問い合わせれば、親切なところなら教えてくれるだろう。