このエントリは、2020年11月にアップしたものの再掲である。
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今回は、先週ずっと見てきた「フォー・シーズンズ(ホテルではない)」のインシデントに関する落穂拾い的なことを。英語表現としておもしろいものがあったのでそれを書いておきたいということがひとつ、そして "Facts are sacred" という前提について強調しておきたいということがひとつ。
どちらから行こうか、と考えたときに、当ブログは英語の実例を集めておくブログなのだから当然前者だろうと思いはするのだが、キーをたたく指が自然だと訴えるのは後者なので、そちらから行こう。
「公正・公平」という理念がある。これは「不偏不党」という四字熟語で言い換えられうるし、現に「公平中立」と言い換えられて流通しているが、理念というより「原則」と言ってよいかもしれない。実務において、それは多くの場合、複数ある説をすべて併記するという形で実現される。そして多くの場合、その「複数の説」は2つだ。これを「両論併記」と言う。この妙な四字熟語っぽいものが世間で四字熟語として認知されているかどうかは私はよく知らないが、四字熟語のもつ金科玉条性とでも言うべきものは持っているように感じられる。
それがまっとうに機能するのは、そこで併記される2つの(あるいはそれよりも多い)説がそれぞれまっとうな場合である。例えば「車の自動運転は人間の生活を向上させるので積極的に推進すべきである」と「制御不能な行動をとる人間を前に、車の自動運転には安全性という問題があるので、慎重になるべきである」といったもの。日本の大学受験生も、ディベート的な小論文課題としてこのパターンの両論併記に遭遇することが日常的にあると思う。
他方、そういった、いわば理性的な議論を超えたところに話を持って行った上で、形式的な「両論併記」を実現することが「公平・公正」だという誤誘導(ミスリード: mislead)の試みも広くみられる。特に「post-truthの時代」と位置付けられる2016年以降はこれが英語圏の一般的報道機関でも切実な問題となった*1。
この場合に「両論併記」を行うのは、議論の上で対立する2つの勢力のうち、一方の勢力が理性的な議論を超えたところに話を持って行くことを正しいこと、許容されることと認めてしまうことを意味する。
ご飯を食べたばかりの猫が「ごはん食べてませんけど?」と主張し(ここで以前述べたような「主張」がカギとなる。主張だけならいくらでもできるのである)、飼い主が「食べたでしょう」と主張する場合(これも事実の裏付けがなければ単なる「主張」であるが)、事実として飼い主が空いたばかりの猫缶ときれいになめ取られたお皿を持っているときは、猫の「ごはん食べてませんけど?」という主張は「根拠がない (baseless, unfounded) 主張」である。これを日常語では「嘘 (lie)」と言うが、特に英語において「嘘」は非常に強い言葉なので*2、「嘘」という言葉の代わりに「根拠のない主張」など遠回しな表現が使われる。
飼い主が猫缶やお皿を持って「あなたはもうごはんは食べたでしょう」と言うのは、「主張」ではなく「事実の指摘」である。これが事実だ。
そこに猫が「まだ食べてませんけど?」と主張するのは自由だが、猫の言うことは事実ではない。
これが、英ガーディアン紙を立ち上げた19世紀のジャーナリスト、C. P. Scottの "Comment is free, but the facts are sacred" という言葉の意味するところである。「主張・論評 (comment) をするのは自由である。しかし、事実は神聖不可侵*3である」。
「事実は神聖不可侵である」。つまり、どのような主張がなされようとも、それが事実を揺るがすということは、端的に、ありえない。猫がどんなに「まだごはん食べてませんけど?」と言い張ったところで空っぽの猫缶ときれいになめ取られたお皿の示す事実は変わらない。そういう事実を示すことが「公正 (fair)」であり「公平 (unbiased)」である。
逆に言えばこの場合、猫の側に立って「でも猫はまだごはん食べてないと言ってるじゃないか」と言うのは、「公平ではない、偏っている (biased)」ことになる。事実を無視して猫に加担しているわけだ。猫かわいいもんね。そうなっちゃうのもわかるよ。でも猫の言っていることは事実ではない。
この状況に両論併記(「猫はごはんを食べていないと主張し、飼い主はもう食べたと主張している」とする記述)を持ち込むことは、事実を無視し、猫の側に立つ行為であり、「公平・公正」とは程遠い。
しかしながら、日本語圏ではこの「公平・公正」の概念が、おそらくは言い換え語である「不偏不党」の「党」の(現代日本語での)概念に影響されて、おかしなことになっている。問題が、事実如何ではなく、どちらの「党」につくのかという話になってしまっている。猫がごはんを食べたという事実はいわばそっちのけで、「猫の側につくのか、それとも飼い主の側につくのか」から議論が出発することになってしまっている。
下記ツイートで山崎さんが述べていらっしゃることは、そういうことだ。「猫の側につくのか、それとも飼い主の側につくのか」という観点が正しいと前提し、事実(空っぽの猫缶ときれいになめとられたお皿)は問わない、と。
今回の米大統領選で、米国のテレビは「両論併記が中立」という一見もっともらしいが実は誤謬の原則を見直し、事実とウソの両論併記をやめ、一方の語るウソを電波で拡散するのを止めた。この見識を日本のテレビはどう見るかと思ったが、「公平中立ではない」と見下す姿勢に驚いた。何も理解していない。 pic.twitter.com/cOukMuVNT3
— 山崎 雅弘 (@mas__yamazaki) 2020年11月15日
2016年以降の「post-truthの時代」においては(post-truth、つまり「事実そっちのけ」の態度は完全に常態化しているが)、これは何らおかしなことではないのかもしれない。つまり、「事実」に対する「非事実」を、取り合わずに流すべきではなく、論の一方の極に置く、という態度。
ここでは、どんなに荒唐無稽な主張であろうとも、誰かの主張にもう一方の主張ではなく事実を照らし合わせるのは「偏り」だと認識されるだろう。
実は日本語圏においてそういうことが起きているということは、もうずーっと前からわかっていた。南京事件に関する否定論である(これについてはネットで自由に閲覧できる蓄積として「南京事件FAQ」などがあるし、故・碧猫さんのブログのサイドバーにも数々のリンクがあるので、否定論に聞くべきところがあると思っている方はもそちらをご参照いただければと思う)。従軍慰安婦に関する否定論もあるし、ホロコースト否定論も、ここ日本においてさえ、南京事件や従軍慰安婦と比べると細々とではあるかもしれないがしぶとく続いていて、ある否定論者は今なお「知識人」「名士」扱いであちこちでパブリックな発言をしている。9-11に関する陰謀論(さすがに事件そのものを「なかった」と言う人はほとんどいないので「否定論」とは呼べないのだが)など今何がどうなってるのかを見るのもうんざりしてしまうので見ていないが、かなりすごいことになってるはずである。
だから、そういう、いわば「トンデモ」な「不偏不党」「公平中立」が草の根からボトムアップな形で浸透している日本語圏において、「主張」に対置すべきは「もう一方の主張」であるというばかげた、誤謬に満ちた「常識」みたいなのが支配的になっているというのは、何ら驚くべきことではないのだろう。
驚くべきことではないかもしれないが、危機感は覚えるべきだ。Surprisedする必要はないが、alarmedする必要はある、と書いた方がわかりやすいかもしれない。
そういう危機感を覚えている人々は非常に多くいて、新聞社などは「ファクトチェック」を見えるところで行うようになっている。Post-truth以前はそういう作業は、うちら読者の目に触れないところで行われていたはずだ。「重大な情報がある」というタレ込みがあった場合、そのタレ込みをそのまま紙面に掲載するようなことは新聞はやらない。掲載する前に、事実確認をとってから、掲載するかどうかを判断していたわけで、事実確認は読者の目に触れないところでの必須の工程だった。
それが今、別に新聞社など報道機関とは何の関係もないような人が、ネット上の場を使って、どんなことでも「主張」することができるようになり、誰も事実確認を取らず、というか「事実確認(ファクトチェック)」というプロセスをどこにどう介在させたら効果的なのかもわからないような場ができていて、そこで「事実」とはまったく別個の存在である「主張」が流され、「主張がある」という「事実」が、ありえないほどの重みのある事実として扱われるようになっている。
「ジュリアーニ弁護士がこのように主張している」ということは、それ自体を「事実」として伝えるべきなのだろうか。
そう伝えられたときに、情報の受け手は「そういう主張がある、という事実があるから報道機関が報道している」とは受け取らず、「そういう主張が事実であるから報道機関が報道している」と受け取るだろう。
その危険性について、誰がどのように認識しているのか?
先週ずっと見てきた「フォー・シーズンズ・トータル・ランドスケーピング」社敷地内に設営された会見場からの実況で、英インディペンデントのリチャード・ホール記者がその場で、Twitterという編集者(デスク)のいない媒体でやっていたのは、「誰かの主張を伝えるときに、事実を対置する」という丁寧なファクトチェックである。私はそれを「ツッコミを入れる」という日本語で表現していたが、言葉が軽すぎたかもしれない。
ホール記者のファクトチェックは、もちろんTwitterという文字数の限られた場で、実況という時間的な制約も厳しいところでの作業で、"This is false" (「これは誤っている」) とか、 "This is nonsense so far" (「ここまでのところ、何ら実のある話はない」) とか、"So far not produced any evidence of voter fraud" (「ここまでのところ、投票の不正に関する証拠は一切示していない」) といった短文で、実況中に、要所要所で示されているだけだが、ジュリアーニ弁護士の導入部を(「事実ではない」と指摘しながら、つまりツッコミを入れながら)最後まで聞いたところで、少し分量のある事実の指摘が行われている*4。
There was “zero security” “people have no assurance those ballots were actually cast.” This is not true. Republicans and Democrats monitored the entire process.
— Richard Hall (@_RichardHall) 2020年11月7日
そしてジュリアーニ氏の「総論」が終わったあとに、その主張を裏付ける(はずの)個別の証言者が出てきて「各論」を述べ始めたところで、ホール記者は次のように述べて会見場を立ち去っている。これ以上その場にいても、記者が必要とする「事実」は聞けないと判断したのだ。「主張」ばかり聞かされていても、ジャーナリストは仕事にならない。
I came to Four Seasons Total Landscaping to see if the president’s lawyers would offer any evidence of the fraud they have been alleging. They haven’t. So I’m leaving.
— Richard Hall (@_RichardHall) 2020年11月7日
前回も書いたが、ホール記者のこのツイートは 「私がはるばるフォー・シーズンズ・トータル・ランドスケーピングまで赴いてきたのは、大統領の弁護士団が主張してきた不正の証拠を少しでも示すのかどうかを確認するためだったのですが、証拠など示されていません。というわけで、離脱します」という意味だ。ここで「証拠 evidence」と表されているものは、別の言い方をすれば「事実 fact」である。
これがジャーナリストの仕事ではないのか? 「不偏不党」「公正中立」になるべき/であるべき相手は、何かの「主張」ではなく、「事実」ではないのか?
上で述べた、英ガーディアン紙創設者のC. P. Scottの "Comment is free, but the facts are sacred" という言葉の前半は、長く、同紙の「論説」ページのコーナー名として掲げられていた。しかし同紙が2010年代前半に、英国外にも本社機能を設け(現在、同紙は米国版とオーストラリア版を英国版とは別に運営している)、ウィキリークスの報道とエドワード・スノーデンによる暴露の報道を行うなどして「英国」という枠から離れたところで報道機関として広く認知されるようになり、「論説」ページのタイトルが "Comment is Free (CiF)" というのが特にアメリカ人には全然伝わらなかったようで「論説」として外部の誰かが寄稿したものが「ガーディアンが裏付けたこと」として広まってしまうなど混沌とした状況が生じたあとで、「論説」ページは凡庸極まりない "Opinion" に名称が変更されてしまった。
Comment is Freeと称していた時代のウェブ版のヘッダーはこうだった:
このころのキャプチャ画像は私もいろいろ持っているしウェブにもアップしているのだが、PCも変わっていてそういう雑多なファイルはもう自分の手元では探せないのでウェブ検索で探してみた。すでに古くなっているので、「"comment is free" guardian」でGoogle画像検索してみてもすぐには見つからなかった。検索結果のずいぶん下の方でようやくこれを見つけたのだが、これはハイデルベルク大学での学会発表と思われるもの(PDF)を出典としていて、この発表がまた興味深く読めそうなのでリンクしておこう。タイトルは "Metaphor Negotiation as a resource for macro- and micro-level positioning in the Guardian Comment is free section".
https://www.raam.org.uk/wp-content/uploads/2014/09/RaAM-Cagliari-2014_Vogelbacher.pdf
「主張・論評 (comment) をするのは自由である。しかし、事実 (facts) は神聖不可侵である」。これを確認することは、現実の情報の渦の中では容易ではないかもしれない。ときには自分の魂が削られるような思いもするだろう。プレ・プロダクション工程の一部である「事実確認」ではなく、すでに書かれていてパブリックなもの(公開され、原則、誰もがアクセスできるもの)となっているものについての「ファクトチェック」は、とても負荷の高い仕事だ。
その取り組みについて「ファクトチェックをする側が偏っている」という、往々にして的外れな批判も寄せられるだろう。
扱っているのは「事実」である。
そのときに「偏り」がどうのこうのとあえて "声高に叫ぶ" 人たちこそ、偏っている。重要なのは「事実」だという認識もしようとせず、何よりもまず「偏り」を言い募るのだから。
今回、ここまでで6700字を超えている。英語の話はまた次回。
参考書:
Post-Truth: How Bullshit Conquered the World (English Edition)
- 作者:Ball, James
- 発売日: 2017/05/11
- メディア: Kindle版
*1:日本の報道機関ではずっと以前からこの問題があったように思われる。現状、私に確たる根拠はないが、英語圏のシンクタンクなどは日本のこのnormを大いに参考にしているのではないかと思うことがある。もちろんこれは私の「主張 opinion」であり、「事実 fact」ではない。
*2:拙著にも書いた。ロンドン本参照。
*3:"sacred" は日本語に直訳してもピンとこないが「絶対である」「動かせない」としてもよいだろう
*4:このツイートの中身は、前回のエントリから引用すると、"引用符は文脈より、ルディ・ジュリアーニ弁護士の発言そのままなのだが、ここでもまたホール記者が "This is not true" (「氏のこの発言は本当ではない」)と、非常に明確で強い表現でツッコミを入れ、そのあとに具体的なことを述べている。「共和党員も民主党員も、全過程を監督していた」。"