Hoarding Examples (英語例文等集積所)

いわゆる「学校英語」が、「生きた英語」の中に現れている実例を、淡々とクリップするよ

英語版ウィキペディアでドイツのことを調べる(調べきれないけど)(アンゲラ・メルケル独首相が退任の式典に選んだ曲)

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今回の実例は、報道記事から、「受験英語」てんこ盛りの文。つまり「受験英語」すらわかってないと全然読めない文。【追記: 今回、この本題にたどり着く前に字数が尽きたので、本題は次回に回します。】

今年、2021年は1991年のソ連崩壊から30年である。つまり、1989年のポーランドの普通選挙実施やハンガリーの一党独裁制の放棄と国境開放に続く「汎ヨーロッパ・ピクニック」とベルリンの壁の崩壊から、同年12月に米ソ両首脳によって冷戦終結が宣言され、第二次大戦後は東西に分断されていたドイツが1990年に再統一され……という流れがクライマックスを迎えてから30年だ。その余波として、冷戦構造を前提にした「反共産主義(反共)」によって米国という大きな後ろ盾を有し、自国民を殺戮していたアジアやラテンアメリカ軍事独裁政権が次々と倒れる、ということも起きたのだが、今やそのダイナミズムは忘れ去られ、ただ「反共」の言説だけが(当時のソ連とは別の「仮想敵」を得て)、英国でも米国でも日本でも跋扈している。

30年という時間は、その出来事を「歴史上の出来事」にしてしまう。その時代を生きていた個々の人間にとってはさほど遠い昔のような気はしないにもかかわらず――。あの時代、学生だった人たちは、一生懸命勉強した「国際秩序」が、つまり将来も変わらないという前提で「基本」として勉強したそれが、あっという間に廃用されていくのを、目を点にして見ていたことだろう。私も、そういう次第で、学生時代に勉強したことが卒業したときには役立たずになっていたのだが、同世代か少し上の経営者たちが最近インタビューなどでよく見せる刹那的な無常観みたいなののベースの一部には、その体験があるんではないかとひそかに思っている(もちろんそれだけではなく、日本の場合は「バブル崩壊」とそれに続く「失われたほにゃらら年」がもっと大きく直接的なものとして横たわっているのだろうが)。同世代の報道機関の中の人たちも同じかもしれない。一貫性が重視されないのは「時代」のせいではなく「考え方」「世界観」のせいだろう。

ともあれ、私が小学生のときは、「ドイツ連邦共和国」と「ドイツ民主共和国」で、どっちがどっちらかわかんなくなるややこしい国名としてよくテストに出ていた西ドイツと東ドイツが、ひとつの「ドイツ連邦共和国」となってから30年以上が経過して、人が「東ドイツ」と口にするときのあの一種独特な感じは、もうあまり通じない。

アンゲラ・メルケルという政治家が、英語でいうhousehold nameになったときはどうだっただろうか、と思い出そうとしても思い出せない。そのくらい、少なくとも私と私の周囲の人々にとっては、それはsubtleな(というか日本語では「ニッチな」と言うべきかもしれない、この狭い範囲の中でのことだが)ことがらだった。そもそも、メルケルが「東ドイツ出身」であることは注目されていただろうか?(生まれたのは西ドイツだが、ほんの子供のころに教会の牧師である親の転勤で東ドイツに行って、そこで育って科学者として学位を取り、共産国の一市民として普通に、政府に忠実な態度を見せていたのが彼女である。1990年に東ドイツのCDUに入り、その後統一されたドイツのCDUの一員となった。)

メルケルがドイツの首相*1になったのは2005年のことだった。つまり、今年で16年目で、えらく長いこと首相をしてきた。ひょっとして最長任期かと思うのも当然だが上には上がいて、ウィキペディアの「ドイツの首相一覧」のページで確認できるように、メルケルの前の前、ヘルムート・コールも16年やっている。コールは東西ドイツ再統一時の首相だったが、その任期は1982年10月初めから98年10月下旬まで*2。今回、メルケルはコールの持つ在任記録にわずか何日か及ばずに退任することになっており、「ドイツ初の女性首相」は「ドイツ首相として戦後最長在任記録を更新」ということにはならなかった。

というか、この9月下旬に行われたドイツ連邦議会の選挙(総選挙)のときにはもう、メルケルは任期限りの政界引退を表明していたので、その選挙が終わってすぐに新政権が発足していたら、「最長か」と取りざたされることもなく、「コールに次いで2番目の長期政権」という語り口でか語られていただろう。そうならなかったのは、総選挙後もすぐには新政権が発足しなかったからだ。総選挙ではメルケルの属するキリスト教民主同盟(CDU)は50議席を減らし、これまでCDUと連立を組んで政権の一角となっていた社会民主党SPD)が第1党となったが、どの党も単独過半数をとっていないので第3党以下の政党と連立政権を組むための協議が開始され、それに少々時間がかかっていたのだ。結局はSPDが連立をまとめ、次の政権の中心となることとなり、SDPのオーラフ・ショルツという政治家(最後のメルケル政権で財務大臣を務めてきた)が12月8日の連邦議会で首相に指名される運びとなっている。これにより、アンゲラ・メルケル首相は12月8日に退任する。

そしてその退任の数日前、ドイツでは恒例の退任の儀式として、英語で「ミリタリー・タトゥー」と呼ばれる軍楽隊による音楽イベントが行われた。そこで演奏される楽曲は送別される当人がリクエストすることになっているのだそうだが、「クラシック好き」だったはずのメルケルがリクエストした3曲のうちの1曲が英語圏にもなじみ深いアーティストの作品だったためだろう、けっこう大きなニュース記事になっていた。

https://twitter.com/nofrills/status/1465369165494030341

今回の実例は、この記事から: 

www.theguardian.com

記事によると、過去の退任者(コール、シュレーダー)はフランク・シナトラの歌唱で知られる(決してシド・ヴィシャスのあれではない)My Wayとか、ベートーヴェンの『歓喜の歌』のようなベタな曲を選んでいて、メルケルも1曲は讃美歌で、「ああ、まあそうですよね、CDUですし、お父さんは牧師さんですし」みたいな納得感あふれる選曲だったが、ほかの2曲があんまりオーソドックス(英語でいえばconventional)ではない。

1曲は、Hildegard Knefという女性歌手の "Für mich soll’s rote Rosen regnen", 英語にすれば "It should rain red roses for me" (「私のために、赤い薔薇を降らせて」という感じ)という曲で、これはBBCの記事では "fairly standard - a popular song by Hildegard Knef called For Me It Should Rain Red Roses" などと書かれているのだが、歌い手のヒルデガルト・クネフ(ヒルデガード・ネフ)についてちょいと調べてみたら、ただのポップソングとして片づけるのは平和ボケか、あるいは(BBCのこの記述を書いたのが若い人だったら)冷戦を知らない世代の怠惰ゆえじゃないのかと思わざるを得ない。1925年生まれで、ナチスドイツの時代に10代から20歳までを過ごし、そして……英語版ウィキペディアから貼り付けておくので読んでみてほしい。すごいから。

Knef appeared in several films before the fall of Nazi Germany, but most were released only afterward. During the Battle of Berlin she dressed as a soldier to stay with her lover, Ewald von Demandowsky, and joined him in the defence of Schmargendorf. The Soviets captured her and sent her to a prison camp. Her fellow prisoners helped her escape and return to Berlin. Von Demandowsky was executed by the Russians on 7 October 1946, but before that he secured for Knef the protection of the well-known character actor Viktor de Kowa in Berlin.

Hildegard Knef - Wikipedia

彼女の恋人だったEwald von Demandowskyという人はナチスドイツ政権下の映画産業の要人でナチスプロパガンダにかかわり、戦争末期に「国民突撃隊」という武装組織に動員されたがベルリンから脱出して連合国側に降伏してポーランド軍の運営する戦争捕虜収容所に移送されるもほどなく釈放されてベルリンに戻り、そして翌1946年に米軍の軍警察に逮捕されてソ連の統治当局に引き渡されて(まだ「冷戦」より「反ナチ」での米ソのつながりがそれなりに強かったことのことだ)、ファシストの戦争プロパガンダで裁かれて有罪となり、死刑が言い渡され、1946年10月に銃殺されている。そして銃殺刑に処せられる前に(たぶん逮捕前だろうけど)、恋人のクネフの保護を、高名な俳優に頼んであったという。

その後、彼女はベルリン(とウィキペディアには書いてあるだけで、西ベルリンなのか東ベルリンなのかがわからない。それ以前にベルリン分断の前なのか後なのかもこれだけではわからない)の劇場で司会進行役を務めたり、役をもらったりし、映画にも出演。その1本(1946年のDie Mörder sind unter uns, 英語ではThe Murderers Are Among Us)は東ドイツの国営映画会社の制作で、第二次大戦後の東ドイツで最初に公開された映画だったとか、別の一本(1951年のDie Sünderin, 英語ではThe Sinner、これは西ドイツの映画)では彼女のヌードシーンがあって、これがドイツ映画市場初の女性の裸のシーンだったとか、映画がいろいろと過激な内容でカトリック教会から袋叩きにされたりとか。こういうふうに叩かれた経験について、彼女の言ってることがまたすごい。

Knef stated that she didn't understand the tumult that the film was creating. She wrote that it was totally absurd that people reacted in that manner and made a scandal because of her nudity as Germany was a country that had created Auschwitz and had caused so much horror. She also wrote, "I had the scandal, the producers got the money."

Hildegard Knef - Wikipedia

という具合に、ナチスドイツから東西分断の時代を、縦にも横にも上にも下にもまさに「激動」として通り抜けてきた女性で、ウィキペディア日本語版によると1947年には米国人と結婚していて米国にも活動拠点を求め、1950年に米国籍取得、(西)ドイツ、フランス、英国で映画俳優として活躍を続けるも、根っこから保守的な米国では上述の「過激」な映画ゆえにイマイチだったとか。それでも1955年に映画『ニノチカ』を基とするミュージカルがNYで上演されたときに主演をつとめて大好評を博したとか。

そして、1960年代になって映画俳優としてのキャリアが下降線にさしかかると(女性で、しかも写真見るとたいへんな美貌だから、30代後半になると……ってやつでしょうね)、歌い手・作詞家の道をとるようになり、そちらでも大ヒット。

今回、アンゲラ・メルケルが退任にあたって選んだ曲は、その彼女の1968年の曲。ウィキペディアではドイツ語版しかないので私には中身は読めないけど、こういうときこそ機械翻訳を使って自分で読むだけは読めるんだよね。曲はこちら。映像は写真のスライドショーだけど、レッドカーペット的なところでマレーネ・デートリッヒと一緒に写ってるのがある。

www.youtube.com

そういう歌い手の曲を「オーソドックスなポップソング」扱いするBBCは平和ボケしているのか、あるいはニナ・ハーゲンが強烈すぎて全部持ってっちゃったのか、と、この時点で思うのだが、この「バラ」の歌、歌詞もなかなかである。ガーディアン記事より: 

Her second choice, Hildegard Knef’s Für mich soll’s rote Rosen regnen (It should rain red roses for me), a wistful song about teenage ambition and juvenile arrogance, already suggests an ironic twinkle in the eye, however. “I was suppose[sic*3] to conform, make do,” the lyrics go. “Oh, I can’t conform, I can’t make do, I always want to win too.”

Merkel’s punk pick for leaving ceremony raises eyebrows | Angela Merkel | The Guardian

1925年生まれの人が1968年に出した曲で「ティーンエイジャーの野心と、若さゆえの傲慢さ」を歌って、ヒット曲になる。かっこよすぎてしびれる。

そして、というかそれ以前に、ガーディアンが「ティーンエイジャーの野心と、若さゆえの傲慢さ」とまとめている歌詞の内容。「私、わきまえませんから」みたいな内容。

そしてそれを退任の式典で軍楽隊に演奏させる「ドイツのお母さん」。

アンゲラさん、あなた、性格がパンクって言われたことないですか。

 

こういう曲がスルーされているという現実に圧倒されて、本題に入る前に6000字を超えたので、本題は次回に。

何やってんだ。

 

※6200字以上

 

 

 

 

 

*1:英語ではchancellorであってprime ministerでないことに注意。

*2:余談だが、今も日本の右派が語りたがる「ドイツの首相」は右派のコールで、その次に1998年から2005年まで首相をつとめた左派のゲアハルト・シュレーダーなどは、ネット上で読める雑誌サイトや言論サイトの論説記事では見事にスルーされていることすらある。「歴史修正主義」と呼べないくらいに近い出来事についての歴史修正というかデマ的な改竄かもしれないと思うくらいに意図的に無視されているケースもわずかだがある。シュレーダーイラク戦争のときに重要な役割を果たしたのにね。

*3:supposedのタイポだろう。

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