Hoarding Examples (英語例文等集積所)

いわゆる「学校英語」が、「生きた英語」の中に現れている実例を、淡々とクリップするよ

【再掲】(特に英語圏で起きていることについて)英語で情報が入ってくるかどうかがもたらす、泣きたくなるようなギャップについて

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このエントリは、2021年1月にアップしたものの再掲である。

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今回も英文法はお休みで、前々回前回の関連で書く。(「英文法お休み」と言いつつ、書いてる間に何か出てきたら突然文法解説始めるかもしれないけど、そうなってたら「あらあらうふふ」とほほ笑んで見守ってください。)

前々回のは300件以上のブクマを集め、今日になってもブクマしてくれるユーザーさんがおられるのだが(どうやら大手サイトからリンクしていただいたようだ。ありがとうございます)、「続き」であることを明示してある前回のはブクマ件数もビュー数も物の数にも入らない程度(つまり当ブログ通常運転)である。だが、扱っている内容としては、前回の後半で書いたことのほうがよほど深刻で重要である。

前々回のは、「あのタトゥーを見ても、『あれはANTIFAの成りすまし』とかいう戯言を信じてしまえる人がいるということが信じがたい」ということから書いたものだった。これは日本語圏に限らず、英語圏、というか米国でも、おそらく「成りすまし」説を唱えたのがその界隈の大物であったことに起因しているのだが(宗教の言い方を援用して言えば、「教祖様が白いものを黒と言えば、信者は白いものを黒と信じる」のである)、かなり早い段階で毛皮かぶりもの男本人が「僕はANTIFAなんかじゃありません」というコメントを出しているあたり、苦いコメディのようだ。

そして、当ブログでは、前々回のエントリにおいて、そのことを次のように、出典つき(リンクつき)で明示してある。

ウッド弁護士らにそういわれてしまった毛皮かぶりもの男本人はかなり心外だったようで「僕は正真正銘のQ支持者で、アンティファなんかじゃないですけど。むしろアンティファやBLMに反対してデモしてましたけど」とかいう反応をしているそうで、……

hoarding-examples.hatenablog.jp

にもかかわらず、ブコメでは、「実際のところ、極端に多様な典型的なおもしろアメリカ人のひとり、でしかないんじゃないの」とか、「どっちかというと、『ぶっちゃけノリで来たんで』か『このビッグウェーブに』程度の意識の人じゃないの?w」といった発言も見られる。

そういった発言の件数が多いわけではない(むしろ、しっかり読んでいただいているコメントが多いので、とても感謝している)のだが、このpost-truthの環境下では、問題は、「数が多いかどうか」、つまり「多くの人に "支持" されているかどうか」ではなく、「ごくごく一部の極端な思想(を表した言葉)が、最初はごくごく少数の間でしか行きかっていなくても、やがて事態を動かしうる程度の多数(絶対多数ではない)に浸透し、実際に事態を動かす」ということである。そのことを思い知らされてきたのが、2016年以降の4年間ではなかったか?*1

だからやはり、ちょっと気になるものを見かけたときは、せめて、「気になる」ということを書いておくべきだと思っている。そういうのが広まるのを止めることができるとは必ずしも思わないが(私は悲観的である)、そういうのが広まる潜在的な可能性を無視しないことは自分の中で「砦」を築くことにつながるし、それを無視していない人間が1人でもいるという事実を明示することは、誰かにとっての「砦」になるかもしれない。

戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。

国際連合教育科学文化機関憲章(ユネスコ憲章)/The Constitution of UNESCO:文部科学省

ユネスコ憲章を持ち出すなんておおげさな、と思われるかもしれない。だが、人はカルト的なもの、「あれかこれか」の二元論だけの世界に、いともたやすく取り込まれる(「取り込まれる」というより、根っこの部分で単純明快なものを望んでいるのだから、進んで選択してしまうのだが)。だから「砦」は必要なのだ。ひとりひとりの中に。

ユネスコ憲章ができた当時は、この「戦争」は「国と国との間の武力行使」であったかもしれない。安易に「戦争」という言葉を「比喩的」に使うことは避けられていたかもしれない。そして今でも、言葉遣いとしてはその「狭義の戦争」にこだわるべきだという考えの人もいるかもしれない。だが、今進行中の事態とそれをめぐる言葉を見れば、その「狭義の戦争」のみを「戦争」として扱うことに疑問を感じざるを得なくなるはずだ。これが明確に示されたのがこの5年間で、それを知らずにいるとしたら、「なんとおめでたい」というべき事案であるかもしれないが、あるいは単に英語圏の情報に接していないだけかもしれない。

例えば2015年6月のチャールストン教会銃撃事件の実行者で、9件の殺人などで有罪となり死刑判決を受けたディラン・ルーフは「人種戦争 (race war)」を引き起こすために教会で聖書を読んでいる人々を撃ち殺したと述べている。この事件当時、「人種戦争」をめぐって非常に多くの発言がなされた。当時書かれた文章を今読み返すことで得られるものは、おそらくとても大きい。例えば下記。検索結果の一番上に表示されていたのだが、読んでみたらとても濃かった、カリフォルニア大バークレー校のジョナサン・サイモン教授(法学)のブログ: 

blogs.berkeley.edu

この「人種戦争」論を、その時限りの時事的なネタとして消費するだけしていたら、今となっては「そーいえばそんなこともありましたね」程度にしか思い出されないかもしれないが、いわゆるAlt-rightや、KKK関係者のような、従来であれば「ルナティック・フリンジ」と扱われていた人々が支援するドナルド・トランプの台頭がその余波の中で起きたことを考えれば――あのような悲惨で唾棄すべき事件がネオナチ・白人優越主義思想を抱く人物によって引き起こされたにも関わらず、そちらの思想が拒絶されなかった、という事実を考えれば――、「トランプ現象」的なものは、「人種戦争」について「極右イデオロギーの狂信者の妄想だ」と笑ってスルーすることはもうできないという陰鬱で暗澹たる現実を、何よりもはっきりと示していたのではないか。

その現実を、英語圏の外側で、「人種戦争」という言葉に接することなく、「"わかりやすい" 英語で過激なことを言うおもろいおっさん」にだけは注目していた人々は、おそらく見ていない。認識すらしていないかもしれない。ディラン・ルーフの大量殺人事件(をはじめとする「人種戦争」がらみの暴力事件や言論の広まり)と、「トランプ現象」との間のつながりを見落としているか、あるいは、意図的に見ることを避けているか、見たうえで無視している。それでいて、自分には何かを言う権利があると思っている(それ自体は「言論の自由」で当然のことである。そして/しかし、発言内容の妥当性は全然別の話である)。そういうことが、「トランプのアメリカ」の4年間にここ日本で起きていて、その中で「BLMは暴力のみを旨とする集団」といった事実とかけ離れた認識が広まり、「BLMの暴力化」などという起きてもいないこと(BLMは平和的な運動である。大規模なデモに暴力的な人々が入ってきて荒れたこともあり、そういう派手な写真ばかりが流通したこともあったが、BLMに対するカウンターデモの連中が「ホワイトパワー」のハンドサインを出し、ホワイトパワーのシンボルの旗を掲げる一方で、BLMの側から「ブラックパワー」などというスローガンで反撃するようなことは、個々の参加者のレベルではどうかわからないが、運動体としては、行っていないのだ)が、アメリカとは直接の関係のない日本での事態を勝手に予測して憂慮する(というか憂慮するための予測を立てる)言説で既成事実として持ち出されたりし、一方で「ドナルド・トランプが救世主」というトンチキとしか言いようのない思想(あれも最初は「ネットのネタ」として始まったんだがな……)を大真面目に信奉する人々が出てきたりもする。これら、全部つながっているんだが、「つながっているという証拠はない」などとしたり顔でもっともらしいことを言えば、それなりに賛同が得られるだろう。そういう内容でYouTubeでもやれば広告収入で儲かるかもしれない

誰かがぺらっぺらにうっすーいことを口にする程度なら別にほっときゃいいのだが、自分のわずかな知識から導き出された結論について、自分で批判的に検証することもしないし、そもそもできない(そうできるだけの知識量もない)ということについて開き直り、逆に、自分のうっすーい考えを否定するような見解を示す者を「エリート」呼ばわりして(彼ら・彼女らの用語法では「エリートというレッテルを貼って」*2)「エリート批判」をおっぱじめたりする者も中にはいる。そしてそれが《共感》を呼んだりもする*3。これが、意外と、特別極端な政治思想の人に限らないのが日本語圏の特徴だ。「普通の人」が、「でも、ガス室って、なかったんでしょ?」と大真面目に言っちゃえるのが、日本語圏なのだ。もともとの情報が少なく、なおかつ新たに入ってくる情報が少ない人が、極端な言説にさらされることで、極端な言説が極端なものであるということがわからず、普通に受け止めてしまうのだ。

この情報量の違いを生じさせているのは、第一義的には、ネットを英語で使っているかどうかだ。私は特別なバックグラウンドがあるわけではない。大学や研究機関に籍がなければ使えないようなリソースへのアクセスを持っているわけではない。一般人が一般の住居で使える普通のインターネットの回線で、基本的にほぼ100%、ペイウォール(有料登録者のみが超えることのできる壁)の外側の、誰にでも開かれたの情報の中だけにいる。それでも、英語で窓を開けておくだけで、日本語圏だけにいる場合とは比べ物にならない質の情報が、比べ物にならないくらいの量で流れてくるのを見ることができる。それが私の日常で、それを少しでもシェアしたいと思って作ったリストがこちらだ。

英語でネットを使うということを昨日今日やり始めたわけではないから(そもそも90年代後半に自分でネットを使うようになったのは、英語圏のことを直接知りたかったからだ。東京に暮らす私のリアルな生活はほぼ100%が日本語環境だが、私のインターネットは常に半分以上が英語だった)、それなりの選択眼はあるし、どの窓を開けておくべきかも知っている。Twitter英語圏のデマ屋に遭遇するのは、何かワード検索したときくらいのものだ。あと、まれに、日本語圏経由。つまり私自身の窓からはデマ屋の声は聞こえてこない。そういう環境を築いてある。というか、築けている。

そういう環境で目にしたものの一つが、下記のスレッドだ。日本にずっといると経験しないと思うが、英国でも米国でも、あるいはオーストラリアなどでも、旅行でなく「暮らす」という形でその社会に少しでも身を置くと(現地日本人社会に閉じこもってたら話は違うが)、どこかでホロコーストの影響を受けた人と接点を持つ。祖父母や親がナチスから逃れてきた亡命者だったり(英国の場合は政治家にもそういう人が多い)、ナチス台頭前に欧州大陸を離れた人の子や孫で、親族をホロコーストで殺されていたりする人が、例えば職場の同僚とか学校の先生とか、隣家の家族といったとても平凡な形で、この「わたし」と接点を有する。ホロコーストと無縁ではないという人はそこら中にいる。別の言い方をすれば、ホロコーストというのは、そのくらいの規模で起きたことなのだ。リアル世界のそれはネット世界でも同じで、Twitter上に開け放してある英語の窓からは、こういう話が聞こえてくる。

 「反ユダヤ主義者が着ていたスウェットシャツ」は、前回のエントリの最後のほうでリンクしたが、これのことである。

そしてこの「キャンプ・アウシュヴィッツ」というおぞましいプリント柄が、ある個人に引き起こした反応。(ツイート主のアンドルー・ブラントさんはインターネットセキュリティの専門家なので、threat researchというアカウント名を使っている。)

いきなり英文法だが、第一文は《so that ~ can ...》のthatが省略された形だ。「~が…できるように」と、《目的》を言う構文である。「この男に何が起きたのかを確認できるようにという目的のためだけに、この話をずっとフォローしてます。アウシュヴィッツ収容所(キャンプ・アウシュヴィッツ)について、とても個人的なことを語らせてください」。

 「パンデミック前の2019年の写真ですが、これは私と父の写真。父と会ったのはこれが最後でした。父が持っているのは、祖母の寝室の壁にかかっていた写真です。第二次世界大戦直前、ポーランドで撮影された、祖父とその家族の写真です」

 「このところずっと、この写真のことは、常に頭から離れることがありません。写っている31人のうち、2人はホロコーストが始まる前に他界しましたが、ホロコーストを逃れたのはわずか3人でした。この写真の中の26人が、アウシュヴィッツ収容所で死んだのです」。こうしてアンドルー・ブラントさんは、ご自身のご家族の中の「アウシュヴィッツ収容所の卒業生」のことを書き始める。

それは、ひたすらに同じ文言が続く物語である。

必ず、全文をお読みいただきたい。英語は簡単なので。

threadreaderapp.com

ホロコーストと、ワシントンDCの議事堂占拠とは関係がないだろう」と言う人もいるかもしれない。中にはそう言って食って掛かってくる人もいるだろう。だがそれは、端的に言えば「事態の矮小化」だ。

「これらのカルト信者は、民主党の上層部にいる政治家たちは文字通り本当に幼い子供たちを殺していると信じている、ということを、思い起こしていただきたい。そう信じている一方で、これらのカルト信者は、まるでダメになった肉を廃棄するように幼い子供たちを何十万という単位で文字通り本当に殺した政治思想を理想化しているのです」

 「私はこの政治思想と戦うことをやめない。この思想のせいで、私は一族郎党を事実上すべて失ったのだから。こんなことがここ(米国)で起こることを、私は絶対に看過しない」

「米議会議事堂の中を『キャンプ・アウシュヴィッツ』のスウェットシャツを着た人物が歩き回り、ナチズムの旗が掲げられるのが、筆舌に尽くしがたいレベルで人を傷つけるのは、こういう理由があってのことです。これらは、人を殺すことを何とも思っていないサイコパスです」

 「先ほどの写真に写っている親族の人々の名前を、私は、アウシュヴィッツ収容所から生還した(わずかの)人たちと、墓地の記録から突き止めた2人*4の分を除いては、知らないのです。この先もそれが判明することはないでしょう」

「キャンプ・アウシュヴィッツの遺したものは、そういうことなのです」

 

このエントリの上のほうで参照した、ディラン・ルーフの大量殺人と「人種戦争」についての文章を書いた法学の教授も、ひょっとしたら、アンドルー・ブレントさんと共通する体験を持っているかもしれない。名前を見ればわかるだろう。他にも何人が「私も」と言うことになるか、私には想像もつかない。

それが「アメリカ」だ。(アメリカ以上にそれが身近なのが欧州各国だが。)

 

それでも、この「ごく少数の過激主義者」が、自分たちが信じる思想では「邪悪な者たち」とされる議員たちを拘束し殺す意図をもって、議会の建物を占拠するという大きなことを成し遂げてしまった。

「邪悪な者たち」をまとめてブチこんで殺す、という思想を実行に移したあの政治の大きな過ちを称賛するようなスウェットシャツの男が、あの場にいたことの意味は、たぶんとても大きい。

にもかかわらず、日本語だけに閉じた中にいたら、なんか愉快そうに見える毛皮かぶりもの男(実に「トリックスター」的である)のことは見聞きしても、この「キャンプ・アウシュヴィッツ」男のことは知らずにいるかもしれない。そのうえで、この議事堂占拠というとんでもない暴動について「どっちもどっち」などと平気な顔で言うかもしれない。

 

「キャンプ・アウシュヴィッツ」男は逮捕され、議事堂乱入について2つの罪状で起訴されている。

 

 

【追記】前々回のエントリには、「タトゥーを根拠に極右・ネオナチと言えるのか」という内容の反応もあったが、「あの男は極右・ネオナチかそうでないか」などということは、当ブログは問題としていない。当ブログが扱ったのは、単純化すれば、「あの男がアンティファの成りすましなどであるはずがない。なぜなら、あのようなタトゥーを入れているからだ。そのタトゥーは極右によってこのように盗用されている」ということである。それに対して「だからって極右とは言えないんじゃないですか」と反応しているのは、控えめに言って「顔が真っ赤ですよ」と対応せざるをえない事案だろう。

そのうえで、下記のツイートを紹介しておきたい。英語でそれなりに情報に接していたら、こういうのが入ってくるはずなのだ。

 

See also: 

hoarding-examples.hatenablog.jp

 

f:id:nofrills:20210130224210p:plain

https://twitter.com/threatresearch/status/1349410235883130884

 

*1:加えて、2010年代、特に2014年以降のイスイス団の思想の西洋諸国での広まりとあの集団の動員力についても、最近よく考えるのだが。

*2:この「レッテルを貼る」というのはマスコミのエリートさんたちが好む用語法なんだけどね。

*3:そういうのはネットではずっと以前からあったことだが、21世紀に入ってしばらくたつ今でもまだ「そういうのはネットでのことだから」と言う人がいるとしたら、「今でもまだネットとリアルは別の世界と言い切れる世界に住んでいられるのは、幸せなことなのだろうなあ」と思う。

*4:文脈より、第二次大戦前に亡くなった人たちのこと。

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