今回は、前回のエントリの最後に少し書いたことの補足として実例をいくつか挙げる。
何の話かというと、「アカデミックな英語の文書では『and/but/soを文頭に置くのはご法度』っていう暗黙のルールがある」という俗説・誤情報・都市伝説の話である。
かつてツイートでも言った通り、and/butなどを文頭に置いてはいけない、というのは典型的な俗説で専門家も否定しています😇https://t.co/MVBeTeLXB5 https://t.co/U15fTL8uQw
— MR. BIG (@Kazuma_Kitamura) 2022年8月31日
少しまじめに勉強すれば、and, but, soで書き始められている英語の文にはしょっちゅう遭遇するので、「そういう場合もあるのだろう」というようにゆるく認識できるはずだが、実際にはそこまで量的に英語に接する人はごくごく少数でしかなく、したがって、この俗説が困るのは、「and/but/soを文頭に置くのは常にご法度」という誤った知識として世間に広く定着してしまっている点だ。実際、「butは幼稚だから、howeverを使おう」ということが、日本語で「『でも』は話し言葉なので、小論文を書くときには『しかし』を使おう」というのと同じように信じられて実践されている場面もある。結果、howeverを使うと不自然になるような場面でもがんがんhoweverを使い、そして変だということに気づきもせず、変だと指摘しても何が変なのかわからない、ということが生じている。
いや、まて、元の文は英文一般ではなく「アカデミックな文書」に限定されているではないか、という反論もあるだろう。では問いたい。「アカデミックな文書」とは何か。学術論文か。企業の研究所が出す報告書の類か。学者が書いた一般向け書籍か。
ネットが使える今、学術論文は誰でもある程度探せるだろう。Google Scholarを使うといい。Google検索では、語頭の大文字と小文字を区別した検索ができないのだが、とにかく検索窓に単語を打ち込んで目視してみるだけでも、これらの接続詞で書き始められている文は見つかるはずだ。例えば下記のように。
というわけで、以下ではネットではなかなか探せそうにない*1ものを少し挙げておく。必ずしも「アカデミック」ではないが(フィクションを含む)、口語的なくだけた文ではなく、小学生の作文のようなものでもない。
また、最後に参考として、国連の報告書(これも「アカデミックな」文に入れてもらえるだろうか)で接続詞がどのように用いられているかも見ておこう。というかたまたま、本稿を準備しているときに、新疆に関する報告書が出たので、それを接続詞という観点から見ておいてもいいかなと思ったのだが。(この報告書、内容はもちろん超重要ですが、それだけでなく形式としても)
まず、私の書棚にある古典的文章の断片の宝庫、大学受験英語参考書の古典、原仙作の「英標」を見てみた。私の手が届くところに置いてあるのは、中原道喜が補訂にあたった第5版である。
ぱっと開いたところに、ラフカディオ・ハーンの "On Reading" の一節が抜粋されたものがあり、そこに「文頭のAnd」があるのを見つけた。
続いて、ハーンのこの抜粋のすぐ上に、ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』から、文頭のSoの文。文頭のSoは副詞の場合もあるが(He likes music. So do I. みたいなもの)これは「そうして」「そして」の意味の接続詞である。
(テニエルの挿絵で "Original" と銘打ってるのか……ややこしいな。ほんとのoriginalは挿絵もキャロル自身が書いてるものではなかったか)
『英標』の別なページを見ると、今度はT. S. エリオットの評論文に、文頭のAnd。
『英標』というのはこんな具合に、英語圏(主に英国、米国)の古典的な名文がたっぷり詰まった参考書。私が大学受験生のころにはすでに定番中の定番、つまり古い本だったが、昔の受験生はこれを「標準」としていたのかと驚くほど難しくて、最初は泣きながら取り組んだ参考書である。大学受験生に対する「1冊の参考書を最初から最後までやり抜き、1度やった参考書は3度やれ」という指導は、英語の場合、この参考書のようなものを念頭に置いた言葉で、『ターゲット』だの『DUO』だのの単語集のことではない。私も高校2年で着手した『英標』を、受験本番までの1年半くらいの間で3回やった。問題集にあれこれ書き込み、単語を調べ、文法を理解し、対訳をつけたノートを作っていた。引っ越しのときに捨ててしまったが、捨てなければよかったと心から後悔している。
さて、この『英標』の著者原仙作が亡き後、さらに発展させた中原道喜の別の著書『誤訳の構造』も本棚にあるので見てみた。ここにも文頭のAndが出てくる。小説の一節と思われる。
残念ながらこの本は英文出典の記載がないのだが(かつて、「学習教材としての出版物」は著作権のあれこれの例外と位置付けられていたし、出典明記なしで英米など外国の著作物が参照されることが普通だった)、この本の好評を受けてその後に書かれた同シリーズの2冊の本では出典が書かれているはずである。
さて、少し違うジャンルの本も見てみよう。北アイルランド紛争を長く取材していたジャーナリストが、紛争の当事者3者(リパブリカン、ロイヤリスト、英当局)についてそれぞれまとめた3部作のうち、英当局についての一冊から*2。重苦しくややこしいことを扱っていながら、するすると流れるように読めるという、ジャーナリズムのお手本のような文体である。
p. 352には「文頭のBut」がある。これは「文頭」というより「パラグラフ頭」で、大きな論理マーカー。このButを前文と続けて ..., but ~ という形にすると、論理構造が崩れてしまう。
続いて、p. 360にも「文頭のBut」がある。これはパラグラフの途中のButで、1997年の総選挙で労働党のブレアが政権を取ったことで、その前の保守党メイジャー政権からどのような変化が起きたかをbutを使った単純な論理構造で説明している箇所である。本稿、論理構造について詳しく述べることは目的外で、単に「文頭のAnd, But, Soは実際にこれだけある」ということを示す目的なので、これ以上の説明は控えることとする。
続いて、これもジャーナリスティックな文脈にある文章だが、より「個人の回想」の色合いが強い本。「鈴猫団」ことBellingcatの創設者、エリオット・ヒギンズによる本の一節。ヒギンズさんは文章書きの訓練を受けたジャーナリストではないからかもしれないが、「文頭のBut」が矢継ぎ早に出てくるという、ややイレギュラーな形になっている。
この本は日本語訳も出ている。めっぽう面白いのでぜひ。帯文が原題の副題 ”An Intelligence Agency for People" の部分の翻訳っぽくなっている。
続いて、また違う分野で小説を見てみよう。昨年ノーベル文学賞を受賞した英国拠点の作家、アブドゥルラザク・グルナの作品から。グルナはアラブ人で、ザンジバルに生まれ、タンザニアによる政権転覆後、祖国を逃れて難民として英国に渡り、英語はそのあとで身につけ、大学に進んでからは文学研究などを行い、最終的には英語とポストコロニアル文学を教える大学教授となった人である。つまり、彼の英語は母語ではなく、相当かっちりと教えられ、また本人もかっちりと学んだ言語であるはずで、そこにはきっとジョウゼフ・コンラッド(コンラッドもまた英語を母語としない移民で、英語で小説を書くようになった人物であるが、あの人の英語は、何というか、容赦がない)の影響などもあるのではないかと思うのだが、ここではそんなことより「文頭の接続詞」という形式の話だ。
この「文頭のSo」は接続詞で「だから」の意味。
次は、ノーベル文学賞つながりでシェイマス・ヒーニー。ヒーニーは詩人だが、散文も多く書いた人で、下記は1968年から78年の文章を自選してまとめた散文集から、Y. B. イエイツについて書かれている文章より。
「文頭のAnd」である。これが前の文と続けられた ... of spirit, and all of ~ という書き方をされていたら、意味が変わってくる(「意味」というか「情報の重みづけ」か)。
さて、ここまでですでに当ブログの規定文字数4000字を700字ほど超過しているのだが、書籍などの文章で「文頭のAnd, But, So」が使われている実例と対照する意味で、最後に国連の報告書で接続詞がどのように用いられているかを見ておこう。
人に読ませること (readableであること) が重要な文章と、厳然とした記録・報告を目的とした文章とでは文体の違いというものがあって、その文体の違いが大きくはっきり表れるのが接続詞である。
というわけで、8月31日、バチェレ国連人権高等弁務官が任期切れの直前(英語圏では "minutes before" という表現を使っていた)に公表した、新疆ウイグル自治区の人権状況に関する報告書から(このリンク先からPDFで読める)。
PDFなので手元にダウンロードして、「文頭のAnd, But, So」の有無を検索で調べてみると、この文書にはどれもひとつも含まれていないことが確認できた。
andという接続詞自体は1180件含まれているが、ざっと見る限り、文と文をつなぐのではなく、語と語をつなぐ用法ばかりである("Scope and nature of responses" など)。
butは22件含まれており、《主語 動詞A, but 動詞B》の形や、《not A but B》などの構文の一部が多いようだが、"I was asked to confess a crime, but I did not know what I was supposed to confess to" と、証言者の発言をそのまま(おそらくは*3英訳したうえで)引用した部分などで文と文をつないでいる例がある。
soは4件で、接続詞の用例はなかった(and so onやso as to do ~といった連語の一部だったり、"do so", "people so identified" といった副詞だったり)。というわけで、以下ではsoは除外する。
andは日本語の文法用語でいう《順接》、butは《逆接》で、どんなにお堅い内容の公的文書であろうとも、これら2種類の《接続》は、論理(ロジック)構築に不可欠なので、その論理マーカーとなる言葉は必ず用いられている。ただし、ここでandやbutは用いない、というのが国連文書のルールである。
当ブログがこんなことを時間をかけて調べたり書いたりしていることのそもそも発端となったオーストラリアの方のなんか適当な「豆知識(ただし正確さは保証されない)」系のTwitterの中の人が「アカデミックな文書」というときに想定しているのが国連文書だったならば(その可能性はとても低いと私は思うのだが)、「and/but/soを文頭に置くのはご法度」と言い切るのも理由があるのかもしれない(だが、《逆接》の接続詞としてのbutがわずかしか見当たらないことの説明にはならんよ)。
ともあれ、報告書の中を見てみよう。
下記キャプチャ画像内では、andで書いてしまいそうな《順接》が、additionally, moreoverという言葉で表されている。これらは《接続詞》ではなく《副詞》である。これらの語を用いると、ただandを用いるより、意味がよりはっきりする。
さらに別のページから。ここでも文頭に副詞のmoreoverを置いて論理を明確にしているほか、finallyという副詞も用いられている。
副詞をこういうふうに使うときは、コンマをつけるのがルールで、その点もさすが国連の文書だけにぬかりはない。
そしてまた別のページ。ここまで見てくると、moreoverという副詞が《順接》の定番の副詞なのだなということがわかってくるだろう。ただしこれは、単に真似をしただけでは「アカデミックな文体」にはならない。日本語は、「で」を「そして」に置き換えるだけで形式がフォーマルになるかもしれないが(「池袋に行った。で、大型書店に寄った」→「池袋に行った。そして、大型書店に寄った」)、その感覚でAndをMoreover, に置き換えたところで、ちぐはぐな英文になるだけである。こういうのはたっぷりと実例に接することが重要で、まず手始めに辞書のmoreoverの項の例文を読んで暗記することだ。
さて、このキャプチャ画像、最後までざっと目を通したら however にも気づいただろう(ていうかマーカー引いてあるから気づいてね)。
howeverも《副詞》で、接続詞的に用いるときはコンマを伴う(接続副詞)。文頭に置くこともできるが、よりフォーマルな場合には、この国連報告書のように、文の途中に挿入する。
少し、別な例文で整理してみよう。
まず、Butを文頭で使う形。
John is a great singer. He's got a beautiful voice. But his brother can't even sing in tune.
(ジョンは歌がうまい。いい声をしている。だが、彼の兄ときたら、音程を取ることすらできない)
これは、「文頭のbut」をやみくもに嫌って , but としてしまうと、文章全体の構造が取りにくくなるので、butを使うのなら、このように「文頭のBut」にするのが自然である。
次に、接続副詞のhoweverを使う形。
John is a great singer. He's got a beautiful voice. However, his brother can't even sing in tune.
……と、こういうふうにHoweverで文を始める形もないわけではないが、それよりもフォーマルな文では:
John is a great singer. He's got a beautiful voice. His brother, however, can't even sing in tune.
……と、接続する文の文中に《挿入》の形で入れる。
とても長くなったのでこの辺で。
※7400字