今回の実例は、報道機関のTwitterフィードから。
ケネス・ブラナーという映画人が、イギリスにいる。「映画人」と言っても元はRSCのシェイクスピア俳優で舞台の人なのだが、数々の映画に出演してきた映画俳優でもあり、また自分でメガホンをとる映画監督でもある。私がこの俳優を初めて知ったのは、1980年代終わりの「ミニシアター・ブーム」の中で公開された『ひと月の夏』という映画だった*1。主演はコリン・ファースで、ブラナーもファースも、第一次世界大戦で精神的な傷を負った帰還兵の役だった*2。ファースはそのころ「美少年・美男子」ともてはやされていた英国の俳優のひとりだったが、ブラナーの方は「本格派」みたいな宣伝のされ方だった。
このケネス・ブラナーは、イングランドのレディング育ちで、RADAを経てRSCへ、という英国の演劇界の一流どころの経歴で、今ここでも「イギリスの俳優」とさくっと言ってしまっているが、実はそんなに単純な背景ではない。例によって日本語版では情報が少なすぎるので、英語版ウィキペディアを見てみよう。
At the age of nine, he moved with his family to Reading, Berkshire, England, to escape the Troubles.
ブラナーは1960年12月生まれで、彼の家族は1969年に北アイルランド紛争を逃れてイングランドに移住した。北アイルランドでの事態が、それまでの対立以上の武力化した紛争となったのは1968年10月だから、ブラナー一家は紛争のかなり初期のうちに脱出しているということになる。
ブラナーの家は「ワーキングクラス・プロテスタント」で、家は北ベルファストのタイガーズ・ベイと呼ばれる地域にあった。先ごろ現役引退したプロボクサーのカール・フランプトンがこの地域の人で、彼は「ポスト紛争」世代のベルファスト市民として非常にポジティヴなメッセージを発してきたのだが、紛争のころのこの地域は、非常に大変な状態になっていた。ロイヤリスト(「プロテスタント」側、というより正確には「ユニオニスト」側の武装過激派)の武装組織がここを一大拠点とし、リパブリカン(「カトリック」側、というより正確には「ナショナリスト」側の武装過激派)武装組織による攻撃が頻繁に行われていた。事態がそうなる前には、「カトリック」の住民に対する追い出しも行われていた。ブラナーの父親は建物の配管や内装の会社を経営していたとのことで、紛争など望んでもいなかっただろう。
タイガーズ・ベイといえばこのミューラル(壁画)である(現存はしない)。
イングランドに移住した後、ブラナーはいじめを経験し、標準発音(RP)を身に着けて(発音矯正)やがて演劇の道に進み、そして成功してスターとなっていくのだが、その彼が監督として撮った最新作『ベルファスト』は、自身の子供時代をモデルにした物語映画で(完全な自伝ではない)、今年9月に米国の映画祭で初上映されて以降、好評のうちに各地の映画祭で上映を重ねて「観客賞」などを受賞し、ゴールデングローブ賞などにもノミネートされている。日本でも2022年3月に公開が予定されている。今のこの時代にあえてモノクロ映像という作品だ。キャストもスタッフもベルファストや北アイルランドの人たちでだいたい固められている*3。
今回の実例は、この映画で「父親」を演じているジェイミー・ドーナン(彼もまたベルファストの人である)のインタビュー記事についての掲載媒体のフィードから。こちら:
"For my dad not to be able to see this movie hurts"
— The Times Ireland (@thetimesIE) 2021年12月20日
Jamie Dornan was in quarantine with his family in a hotel in Australia last March when he learnt that his father had died https://t.co/J8IxwM6csV
掲載媒体のThe Times Irelandは、見ればわかるかもしれないが、英国のThe Timesのアイルランド版。アイルランドにはアイルランドの新聞があり、北アイルランドには北アイルランドの新聞があるから、普段はほとんど目にしないくらいに目立たない媒体だが、この一連のツイートはTwitterのサイドバーに出ていた。(The Timesだから、記事そのものは有料購読者でないと読めないのだが、インタビューのハイライトをつなげたようなスレッドで、記事を紹介してくれている。)
文法として見るのは、最初の文。ジェイミー・ドーナンの発言そのものからの一文だ。
For my dad not to be able to see this movie hurts.
この文、ぱっと見ただけでは何が何やらわからないかもしれないが、一度ざっと読んだら同時にどれが主語でどれが動詞かが把握できている、という状態が望ましい。というか、そのくらいの文法力・知識の運用力がないと、英語が使えていることにはならない。
と、どれが主語でどれが動詞ですよということを示す前に行数稼ぎをしているわけだが、この文はこういう構造になっている。
For my dad not to be able to see this movie hurts.
下線部で示した部分が主語、太字で示した部分が述語動詞である(3単現のsがついていることに注意)。
つまり、(形式主語ではなく)to不定詞が主語の文である。
そのうえ、《to不定詞の意味上の主語》と《to不定詞の否定形》も入っている。しかも《be able to do ~》まで盛り込まれている。フィニッシュは《自動詞のhurt》だ。こんな短い文でもここまで盛りだくさんにできるんだなと感心してしまうほどの全部載せだ。ジェイミー・ドーナンの発言の内容も落涙を禁じ得ないものだが、この文は、内容とは別に形式そのもので、全国の学習参考書・問題集例文作成者の涙を誘っているに違いない。
文意は、《不定詞の意味上の主語》だの《不定詞の否定形》だのがわかるようにガチガチに直訳すれば、「私の父が、この映画を見ることができないことは、痛む」。
hurtという動詞は「~を傷める」「~にけがをさせる」の意味で他動詞として用いられることが多く、この他動詞のhurtは再帰代名詞を目的語にして「けがをする」の意味になるのだが:
I hurt myself today.
(私は今日、自分で自分を傷つけた)
(私は今日、けがをした)
※文脈次第で意味は2通り考えられる。
自動詞のhurtはそれ単独で(目的語なしで)「痛む」や「痛みを与える」「気持ちを害する」の意味になる。
Look at the score! It's 8-0! It hurts!
(ひどいスコア、8-0って何!! つらい)
このhurtは形式主語の構文で用いられることも多い。
It hurts a lot to lose a pet after 15 years.
(15年も一緒に過ごしてきたペットを亡くすのはとてもつらいものです)
それがここでは、形式主語ではなくto不定詞をそのまま主語にする形になっている。
To lose a pet after 15 years hurts a lot.
そしてそのto不定詞に、"for ~" の形で《意味上の主語》が添えられた上に、to不定詞が否定形になっているのである。
For me not to be allowed to see them hurts.
(私が、彼らに会うことを許されていないことは、つらい)
ジェイミー・ドーナンはベルファスト湾の一番奥まったところの東側にあるホリウッドの人である。プロゴルファーのロリー・マキロイも同じ町の出身だ。
ドーナンのお父さんであるジム・ドーナン教授は大学で教鞭をとり、重要な研究をものした医学者で(産婦人科医)、やはりホリウッドの人であり、そのお父さん(ジェイミーのお爺さんで会計士)もホリウッドの人だそうだ。
ジェイミー・ドーナンの家は、だから、「ワーキングクラス」ではなく「ミドルクラス」だが、1982年生まれのドーナンが北アイルランド紛争期のベルファストで育ったことは事実であり、その彼がケネス・ブラナーの子供時代の体験に基づいた映画で、主人公の子供の父親役をするというのは、お父さんにとっては楽しみだったに違いない。
しかし残念なことに、ジム・ドーナン教授は今年3月に亡くなってしまった。ドバイでひざの手術を受けた際に検査を受けたら新型コロナウイルスに感染していた。それが命取りになってしまったのだそうだ。ドーナンはそのときオーストラリアで映画の撮影中で、お父さんを病院に送ることもできず、見舞うこともできなかったし、もちろん看取ることもできなかった。今回のドーナンの発言はそのことについてのものである。
Professor Jim Dornan had been admitted to a hospital in Dubai for routine knee surgery but tested positive for Covid-19 and passed away
— The Times Ireland (@thetimesIE) 2021年12月20日
“Dad only ever wanted us to be happy. Whatever path that took us on, Dad was supportive” pic.twitter.com/m1ypHSXe4m
— The Times Ireland (@thetimesIE) 2021年12月20日
Dornan is promoting Belfast, Kenneth Branagh’s semi-autobiographical film about childhood in Northern Ireland.
— The Times Ireland (@thetimesIE) 2021年12月20日
The story, in which he plays a fictionalised portrait of Branagh’s father, feels deeply personal for him too pic.twitter.com/sRPAZaPk08
“For my dad not to be able to see this movie hurts. I take comfort in the fact that he knows I did it”
— The Times Ireland (@thetimesIE) 2021年12月20日
“Some people go their whole lives without being told, ‘You’ve made your parents proud.’ My dad would tell me every day”
— The Times Ireland (@thetimesIE) 2021年12月20日
“It feels very timely and poignant that Belfast is the film I’m talking about now in light of everything that has happened. I feel very connected to my dad through this movie”
— The Times Ireland (@thetimesIE) 2021年12月20日
“This film is a really interesting way to see the beginnings of a conflict that ran for 30 years: through the eyes of a nine-year-old boy”
— The Times Ireland (@thetimesIE) 2021年12月20日
“Let’s be honest, divisions are still there today, particularly in working-class communities.
— The Times Ireland (@thetimesIE) 2021年12月20日
“Sectarianism is very real, but we live in moderate peace at home”
Read the full interview: https://t.co/J8IxwM6csV
— The Times Ireland (@thetimesIE) 2021年12月20日
※本文部分で3800字くらい。