今回の実例は、新聞でほぼ毎日コラムを書いているコラムニストの文章から。
「読んで笑える毒舌辛辣皮肉コラム」みたいなのはだいたいどこの国の新聞にもあると思うが(そしてそういうのを「他人をバカにしている」といって嫌う人たちもどこの国にもいると思うが)、英ガーディアンにもそういうコラムを書く書き手が何人か(何人も)いる。もちろんそういう書き手も、毎日その調子で書いているわけではなく、日本語の慣用表現で言うところの「硬軟とりまぜた」感じで書いているのだが、だいたいの場合は、Twitterなどでフィードされてくる見出しと書き手の名前を見ただけで、「休憩中にお茶でも飲みながら、読もう」と思わせられるような感じ。
スザンヌ・ムーアはガーディアンのそういった辛辣系の書き手で、いわゆるマシンガン・トークを勢いも何もかもそのまま文章にしたらこうなるだろう、という文章を多く書いている。今回のはその彼女の6月18日のコラムより。
読んで笑える文章なので、まずは頭から読んでいっていただきたいが、実例として見るのはその最初の文だ。
Should I ever be kidnapped or held against my will... it will be very easy for my nearest and dearest to know something is up.
抜き書きしたときに省略したのは、ダッシュで挟まれた《挿入》の部分。「読んで笑える文章」としては重要かもしれないが、当ブログでやっているような解説ではさくっと飛ばしてしまったほうがよいだろう(そのほうが文の構造がはっきり見えるので)。
文頭のshouldは「万が一のshould」と呼ばれる用法のshouldで、仮定法のif節内で用いられて「万が一にも~すれば」の意味を表す。
だがこの文、if節のifがない。いきなりshouldで始まっている。
このように、いきなりshouldで始まっている文は、ほぼすべてが《倒置》のケースである。
if節のifを省略すると、SとVの順番が逆になる(倒置される)ことは、次の例文でおなじみだろう。場合によってはこれは「熟語」と教えられているかもしれないが、熟語というよりは文法的に理屈が通る構文のひとつである。
If it were not for your help, I couldn't succeed.
→ Were it not for your help, I couldn't succeed.
(あなたの助けがなければ、私は成功できないでしょう)
If it had not been for your help, I couldn't have succeeded.
→ Had it not been for your help, I couldn't have succeeded.
(あなたの助けがなかったならば、私は成功できなかったでしょう)
いきなりshouldで始まっている文の場合は、次のような過程を経ている。
If another big earthquake should happen, this house could collapse.
→ Should another big earthquake happen, this house could collapse.
(万が一また大きな地震が起きたら、この家は倒壊するかもしれない)
つまり、文頭のifが省略されて、主語(上記例文ではanother big earthquake)とshouldの順番が逆になるわけだ。
したがって、今回、実例として見ている文の場合は、次のように考えられる:
Should I ever be kidnapped or held against my will
= If I should ever be kidnapped or held against my will
この文で用いられているeverは、強意表現の一種である。『ジーニアス英和辞典』(第5版)では「[肯定文のif節で]いつか、一度でも」という語義が与えられた上で、解説のスペースで次のように述べられている。日本語にする場合は、必ずしも明示的に言葉で訳出しなくてもよいということも、下記の例からわかるだろう。
【語法】文脈によりif節が否定的な含意を持つことがある: If I ever catch you doing something dirty, I'll slap you. 何かいかがわしいことをしているのを見つけたら、たたくからね《◆if節内の出来事が起きてはいけないという話し手の警告を表す》
※個人的には、辞書の例文であるにしてもあまりよい例文ではないなと思う。
というわけで、今回の実例の "Should I ever be kidnapped or held against my will" は「万が一にも私が誘拐されたり、自分の意思に反して拘束されたりしたら」という意味だ。
この(ifのない)if節は仮定法だが、それを受ける帰結節(主節)は、"it will be very easy" と直説法になっている。このようなことは、特にif節の仮定法が明確な反実仮想であるというより、慣用的なものであるときによく生じるもので、読むときは気にしなくてもよい。
その帰結節のほうは、見てわかるように、《it is ~ for ... to do ---》の構文だ。forは《to不定詞の意味上の主語》を表す。
it will be very easy for my nearest and dearest to know something is up.
「私の最も近しく親しい人が、何かが起きていると感づくことは、とても簡単だろう」という意味。
英語の文章の構造という点でいえば、筆者はこのように「結論」を述べておいて、そのあとに「理由」を書いている。「そういうことになったら私は絵文字のメッセージを送信する。そうすれば私がいつもの私ではいられない状況にあるということが伝わるだろう」というのが、「私の最も近しく親しい人が、何かが起きていると感づくことは、とても簡単だろう」の「理由」だ。
こんなふうに逐語訳みたいなことをしていると退屈な文だが、英語で英語のまま読むとスピーディなマシンガン・トークで、おもしろおかしい。つまり、筆者が抜き差しならぬ状況に陥ったときは(たとえば退屈極まりない結婚式で外に出るに出られないというような状況にはまりこんだとき)、友人や家族に絵文字でメッセージを送信するから、やばい状況にあるということが瞬時に伝わるだろう、と言っているわけだ。
要するに、筆者はそのくらい、「絵文字」というものを使わないことにしている。そのことについて、辛辣で皮肉なマシンガン・トークをしているのがこの文章である。筆者がなぜそこまで絵文字を嫌うかがこのあとで説明されている。この構造も英語らしいもので、冒頭に「トピックセンテンス」を置いておいて、そのあとで理由や具体例を説明する「サポート」のセクションを置く、という形になっている。
このような英語の文章の構造については、日本では習ってこなかった人も少なくない。ただしここ20年くらいで徐々に大学入試で問われる英語の方向性が変わってきているので、かつての「受験戦争」世代――この世代が自分の経験のみに基づいて、「日本の英語教育はダメだ」論を展開しているようだが――よりも、最近の学生さんのほうが、そういった英文の構造については意識的であると思われる。
「受験戦争」世代で「日本の英語教育はダメ」論を信奉している人に下記の大学受験参考書を見せると、きっと驚くだろう。「こんなことは自分は習わなかった」と。
いつもの文法書: